いわゆる「動ポモ論争」について,盛り上がりの一助にでもなればと思い,書いてみる。

 まず一連の論争に関する感想から。

 ぼくは,Columbus20氏と親しい。だがそれ云々を抜きにして,しんかい氏の批判は不当だと思う。(何故かは下記で説明する)。

 そして,Columbus20氏の文章は,コンスタティブな文章としてはかなりずるいものだった。(本人は明らかに作為的にそのような文章を書いたと思う)

 まあ,パフォーマティブに成功しているので,やはり,身内ながらさすがというしかない。(明らかに意図的である)

 別に場外乱闘めいたことも多々あったのは,だいたい検索して追っていたが,それらについては,字数上やめておく。

 Columbus20氏の文章の結論自体は,同意する。しんかい氏は,自身の「怨念」によって正確にテクストを読めていない。だが,だからといって,しんかい氏の主張の一つである下記については同意である。(それについては,多分Columbus20氏も同意するだろう)

一見平易な文章で書かれているにもかかわらず、『動ポモ』には難解な面があり、論者により解釈が一致しないことにあります。 [しんかい36(山川賢一) 2014]

 さらに言えば,しんかい氏の言うように,『動物化するポストモダン』自体が抱える根本的な問題点についてもっと指摘されるべきだろうと思うし,アップデートはさらに必要だろう。[1]

 では,感想は以上にして,「動ポモ論争」は,下記の通りにされなければならないとかんがえる。

  1. しんかい氏の批判の妥当性の検討
  2. 『動物化するポストモダン』の誤読されやすいポイントの整理。
  3. 『動物化するポストモダン』の問題点

 2と3については,今回は割愛して別の機会に書くとする。

1.      しんかい氏の批判の妥当性の検討

 さて,では始めることにする。

   可能であれば,用意して頂きたいのだが,スマホやタブレット用のKindleアプリで,『動物化するポストモダン』を買っていただけば,以下はより分かり良いだろうと思う。

 ではしんかい氏の主な批判は,下記の通りであると言えるだろう。

A)      「萌え要素」の定義が箇所によって違うため「データベース消費」という概念は矛盾している

A)    「萌え要素」の定義が箇所によって違うため「データベース消費」という概念は矛盾している・・・のか。

 では,批判について見てみよう。

 しんかい氏は,エヴァの箇所では,オタクは,原作のストーリーを無視し,後半のノベルゲームの箇所ではオタクは,原作のストーリーに没入するという矛盾を指摘する。(その批判の妥当性については,別途検討する)

 その鍵は,「萌え要素」の定義が,変遷しているためであるという。しんかい氏によれば,萌え要素は,当初は,非物語=情報というものだったはずなのに,あとづけで,「物語の類型的な展開」もその中に含めてしまうことで,上述の矛盾を矛盾に感じさせない「トリック」を成立させているのだという。ではこの主張はどこまで妥当性があるのか。

  まず,「萌え要素」とは何か。ここで,Kindleの検索に頼ることにしよう。目次以外で,「萌え要素」というワードが初出するのは,67頁の下記の東の定義である。

消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号を,本書では,以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。萌え要素のほとんどはグラフィカルなものだが、ほかにも、特定の口癖、設定、物語の類型的な展開、あるいはフィギュアの特定の曲線など、ジャンルに応じてさまざまなものが萌え要素になっている。 [東浩紀, 『動物化するポストモダン‐‐オタクから見た日本社会』 2001, 67]

  しんかい氏の文章には,下記のように書かれている。

『エヴァ』について、東は、オタクが求めているのは「情報=非物語」だけだ、と述べていました。続く箇所で、東はこの「情報=非物語」を「萌え要素」と名付けます。そして「萌え要素」についてくわしく説明する段階で、さりげなく「物語の類型的な展開」をそのなかに含めてしまうのです。 (しんかい36(山川賢一) 2014)

   東浩紀は,一般に言われる「キャラ萌え」については,67頁以前に言及はしていた。(初出35頁)

 だが,「萌え要素」という東浩紀独自の用語については,エヴァについて論じていた時点では,論じていない。多分,しんかい氏の批判は,この一般的な「キャラ萌え」と東浩紀ワードの「萌え要素」を混同していたことから始まっている。つまり,誤読なのである。

 しんかい氏の文章だけを追っていると,『動物化するポストモダン』の概説から始まっているため,萌え要素について先行で説明があるために,しんかい氏の文章自体の読者についても同様の誤読を招く要因になっているのだろう。

 では,エヴァとノベルゲームのオタクの態度の矛盾についてはどうか。これについては,しんかい氏の言うとおり多少ややこしい部分がある。だがここで重要なのは,「エヴァとノベルゲームの<間>に何が書かれていたか。」ということなのである。

 しんかい氏は,明らかにこの点を「読み飛ばしている」。

 東浩紀は,<間>で,清涼院流水という稀有な作家について言及している。「ミステリの要素も萌え要素に」という節で,先ほどの物語の類型的な展開が萌え要素として消費されているかを論じている。(清涼院流水については,だいたい78頁から82頁を読めばいいだろう)

 清涼院流水が,ミステリの萌え要素を自己言及的に用いているということを東浩紀が論じていることを,ノベルゲームに置き換えれば,特に論理的な飛躍はない。

 まあ,それでも,しんかい氏の主張は,オタクは作家性や物語性を重視しているということであるというのであれば,それは,「物語性」という定義の神学論争になってしまいかねないので,あまり深くは言及しない。そこについては,他の研究を交えた別の議論が必要だろう。ただ,「ミリタリー」と「美少女」という萌え要素の組み合わせである「艦これ」をやっているオタクが,物語性を重視しているとはいえないだろう。[2]

 以上が,簡単にしんかい氏の批判に対するぼくなりの読解である。

 だが,誤解しないで欲しいのだが,『動物化するポストモダン』自体が完全に正しいというつもりはない。ぼく個人としては,いくつか(しかも決定的な誤り)があると思っている。それについては,別途時間があれば書いてみようと思う。

 一つ,具体的な箇所だけ挙げておく。特に重要なのは下線部のところだ。あとは,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』を読めば自ずと言いたいことが分かるはずだ。

しかし実際には,この20年間,その両者を区別なく扱う消費行動がますます力を強めている。かわりにそこで台頭してきたのが,いままで述べてきたように,キャラクターや設定や萌え要素のデータベースであり,このデータベースとの関係に基づいた別種の基準である。そこではコピーは,オリジナルとの距離ではなく,データベースとの距離で測られる。 [東浩紀, 『動物化するポストモダン‐‐オタクから見た日本社会』 2001, 80]

 では,時間があれば,続きを書こうと思う。特にしんかい氏と論争するつもりも時間もない。上にも書いたが,あくまでも盛り上がりの一助になればと思い書いたのであって,論争はColumbus20氏にお願いしたい。

文献目録

Columbus20. 2014年8月16日. https://note.mu/columbus20/n/nce14a10a29fa [アクセス日: 2014年9月26日].

しんかい36(山川賢一). “東浩紀『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか――データベース消費編.” https://note.mu/shinkai35. 2014年8月13日. https://note.mu/shinkai35/n/n01e8e2ccebaa [アクセス日: 2014年9月26日].

東浩紀. 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』. 河出書房, 2011.

—. 『存在論的、郵便的−−ジャック・デリダについて』. 新潮社, 1998.

—. 『動物化するポストモダン‐‐オタクから見た日本社会』. 講談社, 2001.

 



[1] もちろん,アップデートはされ続けているわけだが。続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』や関連書籍である宇野常寛『ゼロ年代の想像力』,濱野智史『アーキテクチャの生態系』,福嶋亮大『神話が考える』,千葉雅也『動きすぎてはいけない』,稲葉振一郎『モダンのクールダウン』などなど)

[2] だが,そういったものについても,物語性を重視するという人はいることは確かだ。どちらかと言えば,しんかい氏は,重視する人で,東浩紀自身はどうなのかは分からないが,ぼくはあまりしない。

  1. shohei19890308 posted this