みのるのタンブラー

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鈴鹿野風呂

鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)は明治20(1867)4月5日、京都市左京区田中大路八に生まれる。本名登。

生家は吉田神社の神官を継承している家柄。幼い頃に母親を亡くしたため、京都を離れ中学は斐太中学に学ぶ。後京都一中に戻り卒業、鹿児島の七高、京都大学の国文科に入学。

大正5年、京都大学国文科を卒業後、鹿児島の川内中学校に勤務。後に京都の武道専門学校、西山専門学校で教鞭をとる。戦後は京都文科専門学校長を勤めた。

俳句は中学時代に小説に興味を持ち「ホトトギス」を購入。大学時代に古今集を卒論とし、また俳諧を藤井乙男(紫影)に学んだ事より句作。鹿児島の川内中学校に勤務時代、同僚の佐藤放也と「ホトトギス」に投句。高浜虚子に師事し、大正9年「散紅葉かさりこそりと枝を伝ふ」で初入選。当時、無味乾燥的な瑣末主義に陥っていたホトトギスの中にあって、叙情的で清新な野風呂の作風は、当時若くして名を成していた日野草城と並んで「草城・野風呂」時代と謳われた。

武道専門学校教授時代に日野草城、五十嵐播水らと「京大三高俳句会」を発足。

大正9年11月、日野草城、岩田紫雲郎、田中王城らとともに、俳誌「京鹿子」を創刊した。 「京鹿子」は「京大三高俳句会」を母体とし、後に山口誓子、五十嵐播水らも加わって、関西ホトトギスの中心をなしていく。 後に「京鹿子」に対し池内たけしが提唱し、水原秋桜子、高野素十、山口誓子、富安風生、山口青邨らの東大出身者を中心とした「東大俳句会」が発足し、この二つの流れが、ホトトギスの二大系統となっていく。

やがて「京鹿子」は草城、播水が京都を離れたことより、野風呂の主宰となり関西の「ホトトギス」の中軸となって発展していく。 野風呂は多作で知られ「連射放」と呼ばれた。それによってやがて平淡な事実諷詠の句が野風呂の特徴となる。 昭和46年3月10日没。

内裏雛冠を正しまゐらする
ついと来てついとかかりぬ小鳥網
水洟や一念写す古俳諧
鯨割く尼も遊女も見てゐたり
秋海棠嵐のあとの花盛り

参考  久松潜一他著「現代日本文学大辞典」明治書院 俳句臨時増刊「現代俳句辞典」角川書店