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※この記事は以前、「ゲンロンスタッフブログ」(現在は休止中)に掲載したエントリを、好評につき再録したものです。
そもそもダークツーリズムって、一体何を指す言葉なのでしょうか。
文字通り受け止めると、暗い旅、ですよね。
たのしい新婚旅行先で思いがけず夫婦喧嘩が勃発、あれよあれよと帰国後の成田空港で離婚が決まったらそれがダークツーリズム?
出張のついでにふらりと立ち寄った見知らぬ街の夜の繁華街で、気弱そうな男が「うちは明朗会計です!」というからついて行ったのにやっぱりコワモテが出てきてぼったくり被害に遭う、もしかしてこれがダークツーリズム?
答えはどちらも、NOです。
実はこの「ダークツーリズム」という言葉、旅の一形態として世界ではすでに広く知られており、またわたしたち日本人の暮らしとも、とっても深い繋がりを持っていたんです。
今回は、このダークツーリズム研究の日本における第一人者でいらっしゃる、観光学者・井出明先生にお話をうかがいました。
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井出明先生(2013年5月某日・ゲンロン本社にて)
Q:まずは井出先生とダークツーリズムの出会いについて教えてください。
井出:私はもともと、社会情報学といわれる分野を研究しておりまして、京大の情報学研究科で博士号をとったのですが、そこに京大防災研究所の先生が兼任というかたち出講されていました。あるときその先生に、阪神・淡路大震災の研究を手伝ってくれと言われ、チームに入って一緒に研究をしたのが、災害研究と関わりはじめたきっかけです。
観光とのつながりは、博士号をとって、大学の先生になってからのことです。運良く近畿大学という経営基盤の安定している大学に入れたときに、せっかくだから好きな研究をしようと思って(笑)、もともと旅が趣味でしたから、観光の研究を始めたんです。今でこそ偉そうに話をしてますが、私がはじめて飛行機に乗ったのは31歳の時で、当時はまさか観光の先生になるとは思っていませんでした。
観光の研究を始めたころは、ITと観光の関連を研究していましたが、それに加えて、それまでやっていた災害研究と観光との接点はないかと思って、世界中の災害跡地、戦争跡地をたくさんまわるようになりました。そういったところには必ず人々の悲しい思い出が蓄積されています。
Q:たとえばどんな場所がありますか?
井出:日本の中にもたくさんあります。たとえば北海道がそうです。明治期の開拓では、本土で生活の困窮に喘いだ人たちが開拓労働力として行くという構図がありました。その人たちの犠牲のうえで、今の北海道ができたんです。釧路に鳥取町という街がありますが、ここは鳥取県の人たちが移住してできた町です。北広島市は広島の人たちが移住してできた町ですし、淡路島の人たちが移住して静内という地域を開拓した歴史が「北の零年」という吉永小百合主演の映画でも描かれています。東京からも、八王子の武士たちが苫小牧に行っていますが、そこでほとんどの方が亡くなってしまいました。
北海道観光というと、今ではジンギスカンやビールなどのイメージがありますが、一方で、歴史の中で積み重ねられた悲しい思い出をたくさん抱えている。これを観光資源として活用できるのではないか、という話を、小樽商科大学の百周年記念のパーティーでしたところ、たまたまその場に外国から来ていた先生がいて、「あなたのやっていることはヨーロッパではダークツーリズムと呼ばれ、最近研究が進んでいる分野だ」と教えてくれたんです。そこではじめて、自分のやっている研究に名前がついていたことを知りました。
Q:なるほど。次にダークツーリズムについて質問させてください。ダークツーリズムという名前になじみのない日本人には、「ダーク」という言葉は文字通りとても暗いイメージと、またどこか軽薄な印象をもって聞こえるかもしれません。それをふまえて、あらためて伺いたいのですが、ダークツーリズムとは一言で言って、どういうことを指すのでしょう。
井出:人類の悲しみを承継し、亡くなった方をともに悼む旅、ということです。
Q:たとえば広島の平和記念公園には、亡くなった方の名前がたくさん書いてありますね。そこに行くこともダークツーリズムですか?
井出:はい、ダークツーリズムの導入の一つとして、大変素晴らしいかと思います。
Q:「導入」というのは?
井出:ダークツーリズムとして色々なところに行ってみると、点でしかわからなかったことが、線でつながってくるんです。そのための第一歩になりうるということです。
日本の近代史を見たとき、昭和のはじめあたりからの日本の無謀な対外膨張政策が、諸外国との対立をまねき、原爆という悲劇を生み出してしまったととらえることもできます。
ここで「近代」と言う言葉を軸にして、ダークツーリズムを考えてみましょう。
たとえば、熊本には水俣病資料館がありますが、もう一つ、熊本市からちょっと北に行ったところに、菊池恵楓園(きくちけいふうえん)というハンセン病の療養所があって、資料館も併設されています。これら二つを続けて見学すると、ダークツーリズムの意味が分かってきます。
Q:どういうことでしょう?
井出:一つを見るだけではわからないことがわかるということです。ハンセン病と水俣病はまったく別の病気ですが、実はある意味でつながっています。
水俣病が生まれた理由は、近代化の中で、公害(という言葉も当時はありませんが)をまったく気にしないで工場を操業させたからです。その結果、水俣病が発生し、患者は救済されるどころか、大変な社会差別を受けることになってしまった。
一方でハンセン病の人たちにも差別されてきた歴史があります。昭和のはじめに、健全ではない人間を隔離しようという優生思想がナチスから日本に伝わってきました。優生思想は、国家の生産性に寄与しない人間を排除しようとする考え方で、近代国家の富国強兵政策や殖産興業政策と重なりあう部分があります。ちょうどそのとき日本が軍国主義化していたことも手伝って、病気の人間は社会から隔離する傾向が強まり、ハンセン病の患者さんたちは療養所に閉じ込められるようになりました。そしてハンセン病患者さんたちへの不合理な隔離政策は、戦後に特効薬が作られた後も、そのまま残ってしまいました。
2つの病気は医学的には全く別物ですが、近代化の流れの中でみると、社会から排除され、まさに近代化のしわ寄せがおよんでしまったのだと理解出来ます。
そういった共通点には意外に気付きにくいもので、水俣病資料館で研究者に話を聞いたときにも、ハンセン病と共通点があるという話はされませんでしたし、ハンセン病資料館で会った学芸員の方も、その時点で水俣病資料館に行ったことがないとおっしゃっていました 。しかし旅人として両方の施設に行けば、より広い視野から社会をとらえられるのです。※但し、今年のハンセン病市民学会は、水俣病との社会的共通項を探ることも論点の一つに挙げていることにも注意しておきたい。
Q:なるほど。ハンセン病と水俣病は、社会全体の問題につながっているんですね。
井出:そのとおりです。ハンセン病や水俣病の患者のように、近代化の中で社会から切り離されてしまった人たちは、実は世界中にいます。その悲しみを共有して次世代につなげていかなければ、せっかくの教訓が生かされないと思うんです。
近代化自体は決して悪いことではなく、近代化によって治らないとされていた病気が治るようになったり、遠くに行けるようになったり、ご飯もおなかいっぱい食べられるようになりました。それ自体は素晴らしいことです。ただ近代化のしわ寄せを受けて、苦しむ人がどこかにいることも忘れてはいけない。そういう人たちの存在を思い出させてくれるところに、ダークツーリズムの価値があるんですね。
井出明先生(菊池恵楓園にて)
井出:じつは震災後、菊池恵楓園で福島の子供を受け入れた時期があります。放射能災害で遊び場を失った子供達に、おもいっきり遊んでもらうためです。
考えてみれば、原発事故以降の福島の人たちへの差別も、まったく科学的根拠がないものであり、その不合理性はハンセン病の元患者さんへの差別と重なりあう部分があります。
Q:差別の構造が同じだということは、さきほどおっしゃった、近代化のしわ寄せということと関係すると思います。そのつながりについてもうすこし詳しく教えてください。
井出:福島の人たちに降りかかった突然の苦難は、もとを正せば日本の近代化の中で福島に原発を押し付けた結果、そこに住んでいる人たちに原発事故の影響が及んでしまったといえるでしょう。水俣病にも同じことがいえます。水俣が近代化の中で工場を押し付けられて、水銀が出て、たくさんの患者が被害を受けた。それは日本に都市文明が発展していく過程で、どうしても辺縁にあたる地方に負担がかかってしまったからです。水俣の事案も、福島の事案も、そんな構図が顕在化したということなのです。
ほかの例をもう一つ挙げましょう。今年の5月26日は、日本海中部地震から30年目にあたります。日本海中部地震で、秋田では13人の子どもたちが津波にさらわれて亡くなっています。当時、秋田県は沿岸部に工場をたくさん誘致するために、日本海側では津波が少ないことを積極的に宣伝していたのです。地震が起きた日、山の方に住んでいた子どもたちがたまたま遠足に来ていて、きれいな海を見ながらお弁当を食べていました。そこで地震が起きたのですが、誰もが津波は起こらないと信じていたので、逃げようとする人はいませんでした。その結果、43人の子どもたちが津波に巻き込まれてしまって、一部は漁船に救助されたものの、13人は亡くなってしまった。何が原因でこうなったのかといえば、秋田県が工場を誘致するために、ここでは津波が起きないと宣伝していたからです。つまり、産業政策のために13人の子どもの命が奪われたと考えることもできます。これは福島の人も同じだと思います。福島の人たちも、原発事故は起きないと聞いて原発を受け入れているわけです。県もその宣伝に加担して原発を誘致したのですから、今避難生活を強いられている福島の人々は、やはり近代化の犠牲と言えるのだと思います。
井出明先生(5月某日・ゲンロン本社にて)
Q:ダークツーリズムは近代化を問い直すというお話でしたが、近代化といってもいろいろな側面がありますよね。たとえばさきほどのお話で、研究のために自然災害の跡地にも行かれたということでしたが、自然災害もやはり近代化と関係しているのでしょうか?
井出:もちろん関係があります。たとえば阪神・淡路大震災のときに、「文化住宅」と呼ばれる古い木造アパートに済んでいた方々に大きな被害が出ました。関東で文化住宅と言えば、洒落た洋風建築を指しますが、関西では「文化住宅」という言葉は、高度成長期に建てられた木造の集合住宅を意味します。阪神・淡路大震災で亡くなった人のうち、8割は圧死でした。木造住宅の1階に住んでいた方が、地震で柱が折れて、2階が覆い被さってきたせいで亡くなるという例が多かったのです。これはつまり、古い木造住宅に長いこと住んでいた庶民階層の人たちに、より震災の被害が大きく出てしまったということです。事情は東京でも同じだと思いますが、収入の低い人たちは、古い木造住宅に集中して居住せざるを得ません。自然災害であっても、弱い人のところにより大きな被害が出る。それが近代化の構造だと思います。
プロフィールで紹介していただいた『観光とまちづくり』に、細かいデータを載せておきましたが、私は震災後のホテル稼働率を調べたことがあります。阪神・淡路大震災の直後から、いわゆるシティホテルと呼ばれる大阪の一流ホテルはどこも一杯だったことがわかりました。もちろん報道関係者と保険会社の調査員が大勢泊まっていたこともあるのですが、宿泊客の中には被災した人も大勢いたそうです。裕福な人たちは、避難するのも体育館に作った避難所ではなく、ホテルに泊まることができるんです。また、一流企業の社員が壊れた家の代わりに社宅を用意してもらえた例や、家族を東京の社宅に引き取ってもらえた例もあります。そういった会社の福利厚生の面でも、中小企業勤めや自営業者と、大企業に身を置く人間との間で、震災の被害に差が出てしまいます。
Q:なるほど。自然災害の中でも、近代化の構造が現れてくるということですね。阪神・淡路大震災の神戸への影響という点で、他に気づかれたことはありますか。
井出:神戸にはお洒落なかっこいい街というイメージがありますよね。震災前の神戸には、中産階級の人たちがたくさん住んでいて、その人たちが街のハイソサエティな文化を支えていました。ところが震災後に、その人たちはかなり抜けてしまいました。当時は、震災後の都市政策をどうするかという点に関する研究も蓄積されておらず、行政は貧しい人を積極的に援助する一方、年収600万円から1000万円あたりの中産階級に対する支援は弱く、彼らに積極的に神戸に留まってもらうための手立てをあまりしませんでした。その結果、神戸の消費文化を支えていたコアな層が薄くなってしまいました。それ故、神戸の文化都市としての活力は長期間にわたって削がれたと思います。
ハードの復旧が終わっても、都市文明を支える人がいなければソフトが貧弱になってしまいます。東浩紀さんが、私に興味を持ってくれるきっかけとなった論文である「東日本大震災における東北地域の復興と観光について—イノベーションとダークツーリズムを手がかりに—」では、仙台を中心に都市文明の明かりを消してはいけないということ述べています。この論文では、ハードが復旧しても都市に固有のソフトがなければ、街としての魅力が半減してしまう点を強調したかったのです。
※被災社会の経済問題については、関西大学の永松伸吾准教授の論考が詳しい。
Q:ダークツーリズムの観点から神戸の街を見た時、興味深いダークツーリズムポイントはありますか。
井出:ぜひ、「人と防災未来センター」を訪れて欲しいと思っています。ここは、研究施設ですが、展示部門があり、事実上、震災博物館としての機能を有しています。ここに収蔵されている資料は、震災直後から、現地の文化人や知識人たちが被災者を訪ね、何を教訓として後世に残すべきかということを被災者にヒアリングしながら集めたものです。まずコンテンツができて、後から箱ができたという、めずらしい博物館なのです。こんな独特の展示が可能になったのは、研究者たちが、教訓を後世に残すことの重要性を被災された皆さんにしっかりと説明して、被災者の方々の理解を頂いたからこそだと考えています。
自然災害をテーマにした博物館には、たとえば雲仙岳災害記念館があるのですが、ここでは溶岩の噴出量とか粘性といったことが展示の中心で、災害によって人の暮らしがどう変わったかという点には深く言及されていません。「人と防災未来センター」は被災地の暮らしを大きく取り上げています。避難所の生活はたしかにつらいものですが、ときにはほっとして笑うこともある。被災地の人々がどんなときに困って、どんなときに笑ったか、そういったことが詳しく記録されているんです。
Q:伝統的な手法の博物館では残せないものの中にも、大事なものがあるのですね。
井出:はい。防災の世界では「人は2度死ぬ」という言い方があります。1度目はその人が亡くなってしまうことですが、「2度目の死」というのは、その人のことを覚えている人が地球上からいなくなってしまうことです。
災害の記録を残したり、亡くなった人の慰霊をするということは、2度目の死を防ぐことになります。博物館に災害の記憶や、そこから学べる知恵を集約させておくことによって、50年経ったときに、誰も何も覚えていないということを防ぐのです。
Q:よくわかります。
井出:また、記憶を残すことには、直接の役に立つだけではない意義があります。災害による死は辛くて悲しいことですが、その死に意味を与えることによって、遺族の方々の癒しになるといわれているのです。
やはり阪神・淡路大震災の例で言いましょう。このときは圧死で亡くなった人が非常に多かったのです。これを教訓に、壊れた建物の下敷きになったとき、初期段階でどういうレスキューをすれば人々の命を救えたのか、実務家と研究者が集まって一生懸命調査しました。この研究を活かして、2004年にインド洋の津波が起きたとき、日本の救助隊がかなり早い段階から現地に赴き、多くの人々を救いました。この様子は「人と防災未来センター」にも展示されています。阪神・淡路大震災で尊い犠牲があったからこそ、インド洋津波で救われた人がいるんだと考えることもできます。これがご遺族の方々への癒しや励ましになっているという側面があります。
震災が起きた直後から知恵・知識・記憶を集め、アーカイブして、かつ体系化しておくと、世界に悲しみの記憶が伝わるとともに、次の世代の生存に寄与できる。「人と防災未来センター」は、この意味において世界で最も意義深い災害博物館の一つであると言ってよいでしょう。それゆえ、海外からもたくさんの見学者が訪れています。
「人と防災未来センター」にて ※許可をいただいて掲載しています
悼みはどのように共有されるのか?
Q:井出先生は様々なダークツーリズムスポットに行ってらっしゃると思いますが、「悼みの共有」という面で特に印象深かったところはありますか?
井出:色々行ってみて実は、なかなか悼みって共有されないもんだなと、悩むことがよくあります。
Q:えっ?
井出:沖縄に行かれたことはありますか? 修学旅行で人々がよく、ひめゆりの塔を訪れますが、若い世代がなかなか体験者の思いを共有してくれないという悩みの声が聞かれるようになって来ました。私も戦争を知らない世代ですし、更に若い20歳前後の学生さんを教えていて、自分たちの問題としてあの悲劇を受けとめることはかなり難しいと思います。
Q:どうすればいいのでしょうか。
井出:ひめゆりの歴史が投げかける問題は多岐にわたりますが、戦争そのものの悲惨さに加えて、軍隊が国民を救わない場合があるというメッセージを発していることは、大きな意味があります。このメッセージは世界的な悲しみ、悼みの連帯に繋がるのではないかと思っています。
私は、世界中の戦争博物館や軍事博物館を訪れていますが、当然のことながら、そこでは自国軍の優秀性と勇敢さを称える展示になっています。私の訪れた中で、数少ない例外の一つが、ベトナムの戦争考証博物館でした。もちろん、自国軍をたたえていますが、驚くべきことに、アメリカ兵に対するヒューマニズムもかなり感じる展示になっています。これはどういうことかというと、ベトナム戦争当時、アメリカの地上部隊は密林を歩いていたわけですが、アメリカ軍は上空からDDTにまみれた枯葉剤を散布しました。これを浴びた兵士は、帰国後、がんを発症したり、子供に疾患が見られるなどの悲劇に襲われました。ベトナムの博物館は、アメリカの国家の行為としての戦争は、激しく断罪しながらも、枯葉剤を浴びたたくさんのアメリカ兵の悲しみや憤りも感じられる展示になっています。多少踏み込んで解釈すれば、国家システムとしてのアメリカは未だに許していないものの、国家の命令で動いた末端の人々に対しては、敵国の人間であってもまた被害者であるという、まさに共有された「悼み」を感じました。
ベトナム戦争の地下トンネルは、今や観光向けに公開されている。観光を通じて、アメリカの敗北の理由を体感できる。 (笠の男性は井出氏ご本人)
Q:なるほど。国や立場を越えた悼みの共有ですね。
井出:そうです。また、歴史的にみて軍隊は、国民を守るというよりも、国家システムを守って来ました。だから世界中で軍による自国民への暴虐はしばしば見受けられます。今現在のシリアでも、シリア軍が国民を殺しています。
おとなり韓国は、1980年代後半まで軍事独裁政権であったため、軍による横暴はかなりあったことがわかっています。この観点からは、「済州4・3平和記念館」というところはとても印象深かったですね。かつて朝鮮戦争の前に、済州島にはたくさんの共産主義者が隠れているという噂が流れたのです。いわゆる「アカ狩り(=共産主義者の検挙)」がソウルから済州島にも波及し、虐殺事件にまで発展します。実はそのときに日本へ逃げた人々が大量にいて、今、九州・大阪のコリアンコミュニティの一部を形成しています。済州島の人たちは今でも日本の人に優しいのですが、その背景には、自分たちの親戚が日本に避難して、日本で生活しているということに加え、日本の支援者が在日コリアンに協力して「済州島の事件を忘れてはならない」という運動を行っていたことが働いているのではないかと思っています。
「済州4・3平和記念館」は、この流れの中で21世紀になってからようやくできた、虐殺の歴史を学ぶ施設です。ここを見ると、韓国の社会というのは決して一枚岩でなく、第二次世界大戦後の政治の中で、自国に虐げられている人たちがいたということがわかります。この施設ができるにあたっては日本からの支援もかなりあったという記録もありますので、そういう人たちとの連帯があれば、日韓関係は新しい方向に向かうのではないかと思いました。大きな可能性を感じましたね。
Q:これまで様々なお話を伺ってきましたが、そもそも井出先生をダークツーリズムに駆り立てるものって何なのでしょうか。
井出:阪神・淡路大震災の研究の手伝いのために神戸を何度も訪れるうちに、鎮魂や追悼の重要性が徐々に分かってきたのですが、生来の旅好きもあって、旅先で多くの方が亡くなった場所があると聞くと、現地に行ってそっと手を合わせるということはしていました。そのうちだんだんと、誰かが行かないと忘れさられてしまう悲しみがあることに気づき始め、ダークツーリズムという言葉は知らなかったものの、人類の負の歴史に関わる場所をあえて訪れるようになりました。わたしは今、時間が比較的自由なので、実際にダークツーリズムポイントを訪れ、現地で悲しみに触れることができます。そして、大阪に戻ってから図書館やWEBで情報を集めて、本を書いたり、大学の授業で話したりすればその悲しみを次世代に伝えることができます。悲しみの承継になりますから、これが私のある意味ミッションかなとも感じています。
とは言え、ダークツーリズムだけだと、やはり辛いんですね。精神的に消耗するんです。今は本を書いている途中なので、博物館の展示に入れ変えがあったと聞くとそこに行くわけですが、土曜日に水俣に行って、日曜日にハンセン病資料館に行った際は、さすがに結構つらかったです。ですので、たとえば神戸の「人と防災未来センター」を訪れる際には、異人館みたいな面白いところも見て、中華街で美味しいご飯を食べたりもします。そうすると少しは気持ちも楽になりますから。ダークツーリズムは大事ですが、それだけだと旅人の精神がもちません。とくに若い人には精神的な負担が大きいでしょう。ですから、ダークツーリズムポイントを訪れるときは、心の休憩も大切です。神戸の場合は、災害でこんなに大変だったけれど、こんなに復興したんだというところもあわせて見てもらうといいと思いますよ。
Q:ダークツーリズムに、楽しい要素を取り入れるのは少し気が引けますが。
井出:わたしが、ゲンロンの福島第一原発観光地化計画(※)に賛同したのは、レジャー施設も一緒につくるプランになっているからです。この点に関して、様々なご意見をお持ちの方がいらっしゃるのも事実で、不謹慎だと言われることもあります。ですがレジャー施設はとても重要です。沖縄のダークツーリズムスポットに今もなお沢山の人が訪れているのは、レジャー施設でも誘客できるからなのです。これは先述の「心の休息」という観点だけではなく、ダークツーリズムに直接の興味を持たない層に悼みへのきっかけを与えるという観点からも重要です。
サイパンのお隣、テニアンをご存知ですか?テニアンも、サイパン同様、太平洋戦争の激戦地ですが、ここを訪れる日本人はとても少ないんです。なぜだと思いますか?テニアンには、基本的にカジノしか遊べる場所がない一方で、サイパンにはウィンドサーフィンなどのマリンレジャーに加え、ショッピングをはじめとした都市観光も楽しむことが出来る。そうした通常の観光を楽しみに来た人たちも、市中にある戦車の残骸などを見るうちに、戦争に思いを馳せるようになるかもしれません。すると、空いた時間にサイパンの観光マップに載っている旧日本軍関連の史蹟やバンザイクリフで手を合わせることも出来る。今、自分たちがこんなに楽しい思いができるのも、ここで亡くなった人たちが日本の将来を信じて戦ってくれたからだと、旅を通じて感じることができるんです。
※「福島第一原発観光地化計画」思想家・東浩紀を発起人とし、25年後、除染の十分に進んだ福島第一原発跡地およびその周辺を観光地化させる可能性について検討するプロジェクト。公式サイト:http://fukuichikankoproject.jp
Q:興味を喚起させるものがなければツーリストは来てくれないということなのでしょうか?
井出:はい。ただしそれだけではありません。重要なのは経済の循環です。福島第一原発観光地化計画に関わるようになって、発起人の東浩紀さんから、観光と経済の関係について訪ねられました。そこで、あらためて調べてみたところ、経済的な循環のないダークツーリズムポイントというのは、実は今、人が誰も来なくなっているところも多いということが分かってきました。北海道の紋別市には、鴻之舞地区に金の産出地がありました。鉱山であるがゆえ、様々な事故もありましたし、強制労働に関する記録も残っています。ところが、金が枯渇したために、この地域から人々がいなかくなってしまい、今やこの鉱山の跡を訪れる人はあまりいません。結局のところ、経済的に自立した広島のような都市圏にあるところか、もしくはサイパンみたいに他の娯楽施設と両立しているところ、またはダークツーリズムポイントとしてそれ自体大きな誘引力のあるアウシュビッツのようなところなどでないと、ダークツーリズムポイントとして成立させるのは難しいと思います。
Q:先ほどもお話に出た、「福島第一原発観光地化計画」ですが、このプロジェクト名における「観光」という言葉が不適切ではないのかというご意見をいただくことがあります。コアメンバーでもいらっしゃる井出先生は、この点についてどうお考えですか?
井出:観光という言葉は、歴史的には四書五経の易経に由来していて、「国の光を観る」という意味が本義です※。江戸幕府の軍用船も観光丸という名前がつけられました。元々は、非常にポジティブな意味を持っていたのですが、高度成長期に大手旅行代理店や各種の観光事業者がこの言葉のイメージを貶めてしまいました。私が、「福島第一原発観光地化計画」に積極的に関わっているのも、この言葉の持つ本来的意味を再確認してもらえる事が出来ればという強い願いがあるからです。
また、国の役所である観光庁自身も「観光」という言葉をはっきりと定義していません。日本の法律では、1条に目的を書いて2条に定義を書きます。「観光立国推進法」という法律があるのですが、これには2条の定義規定がないんです。要するに、何が観光かということを、観光庁も決められないという状況です。実際、人によって定義が違いすぎていまして、こんなところで留まっていては仕事ができなくなってしまうので、結局観光庁もそこはスルーして仕事を始めてしまっているんですね。一応、日本語の観光は“tourism”(ツーリズム)と訳すことにしています。“tourism”ですと、「学ぶ」とか「体験する」とか「自己啓発」とか「相互交流」という意味も含んでいるのですが、日本の「観光」という言葉には、“leisure”(レジャー)という意味での印象があまりにも強い。では、それに代わる”tourism”の訳語があるかと言うと、ありません。「旅」という言葉がありますが、これだと非常に個人的な体験をイメージしますよね。“sight-seeing”、“trip”、“travel”などさまざまな英語がありますが、日本の観光に携わる方はみなさん、自分に都合よく、いろいろな言葉を使います(笑)。
ただ、「観光」という言葉が幅広い概念だからこそ、その言葉を使ったときに、それに関われる人の数がものすごく増えるということは、この言葉の持つ大きな力だと思います。観光に関係することなく生きている人はまずいません。受益者であれ、サプライヤーであれ、食、移動手段、ホテル、カードの決済、保険……と多岐にわたります。観光産業の辺縁って、ものすごく広いので、「観光の観点から考える」と言った場合、一気にステークホルダーが広がるんです。「福島第一原発観光地化計画」についても、ぜひそういった前提をふまえて、多くの方に考えてほしいと思います。
※「観光」という言葉の意味自体に興味を持たれた方は、佐竹真一「ツーリズムと観光の定義 -その語源的考察、および、初期の使用例から得られる教訓-」を参照されたい。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007687766
Q:なるほど。では「ダークツーリズム」という言葉についてはどうでしょう。日本国内ではまだまだ馴染みのないものだと思いますが、世界的にはどの程度浸透しているものなのでしょうか?
井出:そもそもダークツーリズムの研究は、90年代後半からヨーロッパで始まりました。初期のヨーロッパの研究では、第二次世界大戦やそれにまつわるナチスドイツの蛮行に関わるものが多くを占めていました。その後、9.11の同時多発テロの舞台となったニューヨークのグラウンド・ゼロをどうするかという議論から、アメリカでも研究が深まりました。また東南アジアでもかなり認知されています。これは、地元リーダーの多くが旧植民地宗主国に留学するので、ヨーロッパの学問がかなり早い段階で入ってくることに起因しています。そういった経緯で、いまや世界中で、標準的なツーリズムの一形態として当たり前に使われている言葉だと言えます。
ひとつ例を挙げてご説明しましょう。インド洋津波のとき、かなり多くの死亡者が出たバンダ・アチェという町がありました。現地のツナミ博物館館長のラマ・ダニさんという方は、オーストラリアの大学に留学し、観光の修士号を取った人です。当然、ダークツーリズムという言葉を知っていました。ですので、バンダ・アチェの復興にも「ダークツーリズム」の方法論を用いて、世界各地に発信しました。津波の遺構もそのままの形で残し、見学できるようにして、津波をあえて全面に押し出した観光・復興・まちづくりを行ったんです。その結果、現在のバンダアチェには沢山の観光客が来る様になりました。
※バンダアチェは、津波が襲来する以前は内戦状態であったため、単純に“復興”という概念が適用できないことにも注意したい。詳しくは、ゲンロンエトセトラ #8「ダークツーリズム入門」を熟読されたい。
井出明先生(バンダアチェ・津波で打ち上げられた洋上発電所)
Q:「ダークツーリズム」の手法で訪問者を増やしているということでしょうか。
井出:ええ。そうです。ラマ・ダニさんは、ツーリストが津波の関連遺構を見に来るのはきっかけに過ぎないとも言っています。一度アチェにきてもらえば、美しい海岸線が見られることや、自分たちのような厳格なイスラム教徒が、決して一部の人に思われているような怖い存在ではなく、ただまじめに生きている人たちだと分かってもらえると考えたんです。現地には、名産品であるアチェコーヒーをはじめとして、うまい食べ物、飲み物がたくさんあります。またダイビングをやる人にはとてもいいスポットということです。津波でアチェを知った世界中の人たちが一度現地に来てさえくれれば、きっとリピーターになってくれる。すると、地元の人たちと何らかの新しい交流が起こるので、ラマ・ダニさんはツナミ博物館を、その交流の拠点にしたいと考えたんです。こういった狙いは、かなり当たったと言えます。
Q:なるほど。一方日本では「ダークツーリズム」という日本語としての印象があまり良くないので、別の言葉を使った方がいいのではないかという意見もしばしば聞かれます。そんな中で、井出先生が「ダークツーリズム」という言葉をあえて使い続けていらっしゃる意図とはなんですか?
井出:はい。先ほどお話した様に、「ダークツーリズム」は今や世界中で使われています。ですので、日本だけが使わなければ、「ダークツーリズム」という言葉を通じた、国境を越えた被災者の連帯意識はできてこないんです。三陸海岸は近くジオパークに認定される予定です。その際には世界中から、「ダークツーリズムを楽しみにきました」という外国人が訪れます。そうなったときに、地元の人がダークツーリズムの本当の意味、「地域の悲しみの悲しみを承継し、死者をともに悼む旅の形態」ということを知っていなければ、観光客との間に軋轢が生じてしまうでしょう。ですから我々が「ダークツーリズム」という言葉を使わないことを選ぶのではなくて、正しい理解を持って「使う」ということが大事なのだ、と私は思います。 また、日本には、災害・戦争・公害などの悲しい歴史があるけれども、我々はそれを乗り越えて来ました。日本の経験を、海外から来た旅人に見せることで、より深く我々のことをわかってもらえるようになります。外国のダークツーリストを積極的に迎えることは日本にとって非常に重要です。
学術面から見ても、日本には世界的に価値のあるダークツーリズムポイントが多数あり、ダークツーリズム研究の拠点となり得ると思っています。この分野の研究を日本から発信していくことは、日本の歴史や日本人の考え方を外国の方に知ってもらうためにも大切です。その意味でも、世界共通語となっているダークツーリズムというという言葉を避けるのではなく、この言葉を通じて国際交流や相互理解を深めていきたいと考えています。
(完)
四・三平和記念館
済州島、平和記念館と山々を遠くから望む。島全体が火山島であるため、山ぎわの美しい風景であるが、レッドパージの際には多くの島民が山に逃げ込むとともに、壮絶な赤狩りが展開されたという。今や観光の島となったこの地も、闇は深い。
井出明(いで・あきら)プロフィール
観光学者。追手門学院大学経営学部准教授。
1968 年生。京都大学院情報学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(情報学)。
社会情報学とダークツーリズムの手法を用いて、東日本大震災後の観光の現状と復興に関する研究を行う。共著に「観光とまちづくり―地域を活かす新しい視点」他。
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さらに深く知りたいというみなさんのために、ゲンロン完全中継ではインタビュー動画動画「ダークツーリズムが被災地をつなぐ」(福島第一原発観光地化計画の哲学 3)も公開中です。こちらもあわせてどうぞ!
井出先生にはお世話になった時期あるのでrb
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