ウラジーミル・ソローキン「ウクライナを孕んだロシア」 | ゲンロン出版部

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ウラジーミル・ソローキン「ウクライナを孕んだロシア」

翻訳 上田洋子

 ウクライナの革命は、2月にキエフの独立広場(マイダン)で起こり[★1]、もはやこの国が後戻りできなくなるような一連のできごとを引き起こしたが、さらに、規模としてみればもっと後戻りのできないできごとを神秘的なかたちで促した。ロシアはウクライナを孕んだのだ。マイダンの黄色と青の精子は、手榴弾の爆発や火炎瓶の閃光、スナイパーの砲弾の甲高い音を浴びながら、男性としてしかるべき行為を行った。あの熱いひと月、熱を持ったテレビの前で、ロシアは身ごもった。ロシアの巨大な体内で、新しい生命が動きだした。自由なウクライナだ[★2]。これには政府は戦慄を、リベラルは嫉妬を、ナショナリストは憎悪をおぼえた。それにしても、こんな急展開はクレムリンも民衆も予期していなかった。おなかの子は大きくなって、日一日とメディア空間を占拠していった。キエフの革命は、ロシアを魅惑し、おびえさせた。母体のなかの内なる生命は、この場合は当然のことだが、動きを止め、偉大な生理的プロセスに従った。妊娠になにが対抗できるというのか? こういうときに女性は「〈いま〉のわたしの人生は〈まえ〉とは別物なの……」と言ったりする。ロシアの暮らしのできごと、内政、政治や犯罪のニュースは、ストップモーションのようにいきなりすべてが停止した。ロシアの暮らしの多様性は、すべてがあたかも背景に退いて、希望のない過去になってしまったかのようだった。未来があるのはあちらだけ、ウクライナだけだった。国民の口には、ウクライナの単語やキエフの政治家の名前が上るようになった。プーチンのロシアでは小馬鹿にしたような態度で論じるのが常であったあの田舎のウクライナが、いきなり、信じがたいまでに流行で現代的になって、他方で巨大なロシアは、どうしようもなく遅れた、ばかでかい田舎の国になった。

 社会の反応は嵐のようだった。

「ウクライナ人が羨ましい。われわれは見習うべきだ!」

「ウクライナの革命は西側による反ロシアの挑発だ!」

「これは起爆装置で、ロシアを爆破するかもしれない!」

「ウクライナは敵になった!」

 いっぽう、おなかの子はますます大きくなって、空間を占拠していった。毎日、新しい予想外のことをもたらした。母体のほうはどんどん熱病がひどくなっていった。社会はおののいた。

「ウクライナは存在しない、これまでもなかったし、これからもない! 大ロシアの一地方があるだけだ!」右派の政治家たちは金切り声で叫んだ。

「ウクライナはプーチン体制の鏡だ」と、政治学者たちはなにかを見抜いたかのようにメガネを直した。

「ウクライナに亡命すべきときがきた……」と、民主主義者たちはつぶやいた。

「ロシア人を守りに行くときがきた!」と、ナショナリストたちは拳を握りしめた。

 妊婦はときにやたらと生肉が食べたくなるのはよく知られている。ほら、これががつがつと噛み切られた新鮮な肉体、クリミアだ[★3]。ポスト帝国主義の摩耗した歯でもそれを噛み切ることはできた、が、呑み込む力はもはやなかった。クリミアはロシアののどにつかえてしまった。経済学者によると、どのように見積もったとしても、補助金を要する、問題を抱えた地域になるだろうという。どうすれば消化できるのか?! 毎年いったい何十億がかかるのか? そもそも島なのだ。カジノ特区を作る! 中国人の手でヴェリーキー・ルースキー橋〔偉大なロシアの橋の意〕を建設する[★4]! 全国家公務員に強制的にバカンスに来させる! スターリン式に行動する! クリミアを軍事基地にする! では、不法者のクリミア・タタール人[★5]はどうする? まさかふたたび強制移住か?! 頭がくらくらする……。そもそも、こんなウクライナのエイリアンが体のなかでぴくぴく動いているというのに、この先どうやって生きていけばいい?

 そしてついに、クレムリン、すなわち母体のブレーンからのリアクションがあった。それは残酷なものだった。「堕胎だ! 憎むべき、危険な、望まれない子供は厄介払いだ」と。堕胎は「ウクライナにおけるロシアの春」[★6]と名づけられた。分離主義者、破壊工作員、ソルジャー オブ フォーチューン〔傭兵のこと〕、山師、扇動者の手でそれを行うことが決定した。手術(オペレーション)はウクライナ南東部で、とくに消毒もしないまま、とくに新しくも清潔でもない器具を用いて開始された。麻酔の役目を果たしたのはテレビだった。ロシアのテレビは熱くなりすぎた。
「ロシア語系住民をファシストの軍事政権から守ろう! われらの血をわけた兄弟が助けを求めている! ドネツクとルガンスク[★7]はウクライナにおけるロシア共同体の柱だ。ウクライナのリベラル・ファシスト[★8]に反撃を加えよう、われらの祖父や父が行ったように! ウクライナのロシア人を守ることは愛国者の神聖な義務だ! アメリカはリベラル・ファシストの手でウクライナを占拠しようとしている!」

 テレビに洗脳された住民は目を見開いて街を歩いた。どこへ行っても、ウクライナの「リベラル・ファシストたち」が、ロシアの首元に手を伸ばしているのが見えるような気がした。もっとも、テレビが引き起こすヒステリーからは、小咄(アネクドート)も生まれてきた。

 ふたりのオデッサ[★9]の女性がカフェに座っている。

「サラ、信じられる? うちのアブラームったらロシア語を話すのを断固としてやめちゃったのよ」

「なぜ?」

「ロシア人たちがオデッサに彼を守るためにやって来るのを恐れているのよ」

 テレビとともに頭も熱くなりすぎた。ロシアの政治家や官僚たちの「早急に軍隊を導入し、キエフに到達すべきだ」という絶叫は、もはや共通の見解となった。

 ところが、十分すぎるほどの麻酔を使ったにもかかわらず、堕胎はどうやらうまくいかなさそうだ。胎内から胎児を取り出すことはできないだろう。そしてロシア人の一人ひとりが、いまも自分のなかにウクライナを抱き続けている。あの、真の自由と独立を望んだやつだ。

「なぜぼくは毎朝、ウクライナのニュースから一日を始めなければならないんだ?!」と、ある知人が憤慨している。「われわれみんなの目と耳に、ウクライナが毎日入り込んできやがる!」

「ロシアとウクライナが戦争しているなんて信じられない」と、べつの知人が言う。「まるで悪夢のようだ……」

「われわれロシア人はみな、いま、巨大な劇場にいて、舞台では『ウクライナ』という戯曲を上演中だ。そして劇場から出ることはできない!」と、もうひとりが苦々しく笑う。

 最近、ロシアメディアで流れた信じがたいニュースを聞いて、だれもが偉大なゴーゴリを思い起こした。「7月8日、サンクトペテルブルクのネフスキー大通りで心神喪失状態の政府高官が拘留された。書類鞄を持ち、ズボンを履いていなかった」。これはサンクトペテルブルク市副市長の行政機関長であることが判明した。医師によると、病院搬送後、彼は「ルガンスク」というひとつの言葉をうわごとのようにひたすら繰り返していたという[★10]。

 ウクライナはわれわれのなかに入り、われわれはだれもがウクライナを自分のなかに抱いている。浮浪者も政治学者も、農家も新興財閥も、主婦も破壊工作員も。プーチンは遠くブラジルへ飛んだときも[★11]、ウクライナを自分のなかに抱いていた。ウクライナはサッカー観戦の邪魔になった。ドネツク人民共和国の司令官ストレルコフ[★12]にとっては、ウクライナはロシア帝国再興の邪魔になっている。地対空ミサイル「ブーク」のオペレーターには、ウクライナの空を飛んでいた飛行機が邪魔になった。だから彼は飛行機に向けてミサイルを発射したのだ。ボーイング777の墜落は痛みゆえの痙攣であって、取り返しのつかない恐ろしい結果を予兆するものだ。

 ロシアはウクライナを孕んでいる。出産は避けられない。これからが正念場だ。ひどくなっていく痛み、臍帯(さいたい)断裂、新生児の産声……。赤ん坊の名前は美しいものになるだろう。「帝国との決別」だ。この子は幸せな子ども時代を過ごすことができるだろうか。それはわからない。多くのひとが、この子が健康に育つことを心から願っている。

 ところで母親はどうなる? 出産は重く、さまざまなトラブルも発生するだろう。母体はこれに耐えられるだろうか。そして周囲の世界はトラブルに耐えられるだろうか。

解説・訳注

 本エッセーは、2014年7月21日、ドイツの新聞「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」のサイトにドイツ語訳が掲載された。つまり、ウクライナ東部でマレーシア航空の旅客機が墜落した7月17日の直後に執筆されたことになる。マレーシア航空機墜落の原因は現在も究明されないままだが、世界的には、ロシア政府の支持を受けている親ロシア派がウクライナの戦闘機と誤って地対空ミサイル「ブーク」を発射したとの見方が強かった。

 なお、本エッセーはロシア語では発表されていない。ロシアでは、ドイツ語ニュースからの部分訳のかたちで流通した。翻訳にあたっては、ソローキン氏からご提供いただいたロシア語原文を底本としている。

★1 ウクライナ騒乱は、2013年11月、ウクライナ政府がEUとの連合協定締結準備の一時停止を宣言したことに反対して起こった大規模なデモに端を発する。親ロシア路線を進めるヤヌコーヴィチ政権に反対してデモは激化していき、2014年2月18日、大統領の権限を制限する2004年憲法の復活を求めてキエフで大規模デモが起こった。2月22日に政府が反体制派の要求を呑むかたちで合意に達したが、その後、極右の右派セクターがヤヌコーヴィチ大統領辞任を要求し、再び混乱が始まる。結局、ヤヌコーヴィチ大統領は2月22日にキエフを脱出。2月27日にウクライナ暫定政権が樹立した。

キエフの独立広場は一連のデモの舞台である。革命運動はヨーロッパの「ユーロ」と広場を表すウクライナ語「マイダン」を合わせて「ユーロマイダン」と呼ばれる。

★2 ウクライナの反露の極右政党「自由」は、ユーロマイダンでも活躍。2月に発足した暫定政権にも、副首相をはじめ、多くの党員が入閣した。ここでも、一般的なスローガンとしての「自由」のほかに、「自由」党の躍進が含意されているのだろう。

★3 2014年3月11日、クリミア自治共和国議会と、セヴァストポリ市議会がクリミア独立を宣言。3月16日にはロシア編入の是非を問う住民投票が行われ、圧倒的多数でロシアへの編入が決まった。しかし、ウクライナも国際社会もこれを認めていない。

★4 ケルチ海峡に橋を架け、クリミア半島とロシアを直接結ぼうという計画。2010年にウクライナとロシアの間でプロジェクト開始。その後計画は進んでいなかったが、ロシアによるクリミア編入を機に再開されている。なお、ケルチ海峡に橋を架ける計画は実はソ連時代の1943年にも一度実現されたが、技術的に弱く、建設後間もなく壊れてしまった。

★5 15世紀から18世紀にクリミアに存在したクリミア・ハン国のイスラム系住民の末裔。スターリン政権下の1944年、独ソ戦での対独協力の嫌疑をかけられ、中央アジア諸国に強制移住させられた。クリミアへの帰還が始まったのは、ペレストロイカ期の1989年である。

★6 2014年2月から3月にかけて、ウクライナ南東部で起こった親ロシア派や分離派による反ウクライナ新政権運動のこと。

★7 ルガンスクはウクライナ語ではルハンシク、ドネツクはドネツィクとなる。これらの地名は本文中でいずれもロシア語話者の文脈で登場するので、あえてロシア語で訳した。ルハンシクとドネツィクは、ともにロシアと国境を接するウクライナ南東部の街。クリミアのロシア編入後、親ロシア派勢力が権力を掌握し、ドネツク人民共和国(4月7日)、ルガンスク人民共和国(4月28日)の建国を宣言。さらに5月12日、ともにウクライナからの独立を宣言した。これらの国は5月24日、ノヴォロシア人民共和国連邦を結成。「ノヴォロシア」とは、18世紀に露土戦争の結果ロシア帝国領になって以来、20世紀初頭のロシア革命まで用いられていたこの地方の名称。ロシア帝国の継承者を自任していることが、この名称からわかる。

★8 ロシアの政府系テレビ局のプロパガンダで、ヤヌコーヴィチ後のウクライナ政権はしばしば「ファシスト」と呼ばれた。たとえばこちらのBBCのニュースでは、ロシアとウクライナのマスメディアで用いられる語彙が比較されている。http://www.bbc.co.uk/russian/russia/2014/08/140810_ukraine_conflict_tv_language.shtml?postId=120110964

★9 オデッサはウクライナ南部の港街。ユダヤ人が多いことで有名。「サラ」はユダヤ人女性の典型的な名前で、ロシアの小咄にしばしば登場する。この小咄は、やはりユダヤ人のアブラームが、ロシア人でもないのにロシアの援軍を恐れていることにオチがあると思われる。

★10 この事件は実際に複数のメディアで報道された。国営テレビ局「ロシア–24」のニュース番組、「ヴェスチ」のサイトには動画が上がっている。http://www.vesti.ru/m/doc.html?id=1779203

★11 2018年ワールドカップ開催国の代表として、プーチン大統領は2014年ブラジルで開催されたワールドカップの閉会式に出席した。

★12 イーゴリ・ストレルコフはモスクワ生まれのロシア人。ロシアのナショナリストで、ボスニア紛争やチェチェン紛争などに傭兵として参加してきた。ドネツク人民共和国の指導者のひとりで、2014年5月16日から8月14日まで共和国の国防相だった。このエッセーが書かれた時点ではまだ国防省の職にあったことになる。彼は7月17日、ドネツィク州でマレーシア航空の旅客機が墜落した事件の際、ほぼ同時刻にSNSの「フコンタクチェ」に「An–26輸送機を撃墜した」と書き込んだとされている。

※ 本エッセイは、発売中の「早稲田文学2014年冬号」の特集「危機にあらがう声」でも、中国・ガザ・イスラエル等の作家の作品とともに掲載している。

© Владимир Сорокин, 2014

Notes

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