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知らぬ存ぜぬうちの花・4

 読野清孝の意識がゆっくりと闇の底から浮上してきたとき、はじめに感じたのは、店の床の冷たさと、肩の上に乗ったかすかな重みだった。
 がんがんと、まだ痛むような気のする頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。するりと、肩に掛けられていた何かが滑り落ちたのへゆっくり視線を落とす。羽織と洋装のジャケットの合いの子のような形の上着が、座り込んだ読野の袴の上に落ちている。似たようなものを着ている馴染みの人間に、一人、心当たりがある。
「おはよう、読野」
 頭上から降ってきた声に、ゆっくりと頭を動かす。上を向けば、いつもの位置、勘定台の端へと腰掛けて、大きな背中が長い指先ではらり、と頁をめくっているのが見える。あの本は確か二階にあったもんじゃあなかったかしら。そうは思えど文句は浮かばず、ただぼんやりと口を開く。
「佐田久、先輩……」
「床で寝るには、些か季節が早いんじゃないかと思うが」
 ぱたん。本が閉じられ、机の上へ。その動作の途中、見えた表紙にむ、と眉根を寄せる。それはやはり、店の二階、読野の自室へ引っ込めておいた本だった。
 少しずつかみ合い始めた思考の一方がが、小言をぶつけようと提案するが、もう一方が、いやその前に礼だろうと、勝手に動こうとする唇を引き止める。そんなことをしている間に、勘定台の上の人影、佐田久は、くるりと体を反転させ、読野の方へ正面を向けた。薄い色の布の筒をまとった長い脚がぶらぶらと、落ち着かなさげに揺れている。
「頭を打ってるようだったから、動かすのは怖くてな」
「救急車呼ぶとか……」
「血は流れてないし、呼吸も安定してたし、取り合えずは大丈夫かなと」
「じゃあ特高を……」
「その冗談は面白いな」
 佐田久は脚を組み、口元へ手をやってくすくすと笑う。しかし、眼鏡の奥の黒い目はそんな感情を映していなかった。ややまなじりを下げて、じっと読野を見つめる眼差しは、なるほど、心配しているという風にとれる様子だ。
 脚の上の上着を拾い上げ、佐田久へと差し出しながら、読野は脚を胡座に組む。後頭部へ手をやると、殴られたと思しき部分が膨れ上がって瘤になっている。これはしばらくは痛むだろうなと思うと、自然、表情は険しくなる。
「何があったんだ」
「後ろから、殴られて……」
 答えるために思い出しながら、はっとする。殴られる前に広げていたもの、考えていたこと。店の中は夕焼けの赤色へ染まっているままだから、殴られてから、さして時間は経っていないはずだ。
「先輩、台の上に帳簿は置いてなかったですか」
「いや……見当たらなかったが」
 その答えへ、読野の顔からざっと血の気が引く。まったく自分の油断が招いた、最悪の事態だ。腐れ縁や、もう会うこともないと思っていた姉が絡んでいると思しき何かについて、ではなく、この雨読庵という店の存続について。
 勢いよく立ち上がるが、すぐに、ひどいめまいにくらりとよろめく。佐田久が、おい、と低く声をかけて、読野の体を支えた。読野はもたれかかることになった腕をきつく掴みながら、間近のしかめ面と目を合わす。
「この近くで髪の長い白衣の女を見ませんでしたかっ」
「っいや、見てない」
「じゃあ、荒神と特高、どちらも噛んでいそうな事件に心当たりは」
 そこまで言って、読野の体からまた、ふっと力が抜ける。佐田久は、読野の体を両の腕で支えながら、いっそう顔をしかめた。こんなに焦った様子の後輩は、そうそう、見ることもないために。
「――俺は知らないが、当たってやる」
 だから、一言そう告げて、佐田久は読野から受け取った上着のポケットの中を探り、懐中電話を取り出す。蓋を開け、ダイヤルするのは、橙の派手な髪色の、元同僚の番号だった。

++++

「匙谷小唄と接触したあ?!」
 机の上の白い受話器をあげて、漉が叫んだ声とその言葉へ、室内の視線が一斉に、橙の頭へと集まる。ちらほらと外から帰ってきた職員も居る中、発せられた言葉は、緩みかけていた室内の空気をぴりりとさせるのに足るものだったのだ。
「場所と、被害は? ……一人が使い物にならなさそうで、もう一人が、折本? 折本には時間が薬になるだろうけど……で、資料が不自然に欠けてる? 持ち去られたか、くそっ」
 机へ叩きつけるように、被害状況を書き取っていたペンを置く。書き取ったものを寄ってきた課員へ手渡せば、すぐに、課の前へ設置したホワイトボードへ書き写される。
 匙谷小唄、今回ばかりは荒神小唄と呼ぶ方が、適当だろうか。検閲課でその名前と異能を知らぬものはいない。異能の餌食になったことがない人間もまた、数えるほどしか。
 今回彼が動いた理由は明白だ。そして報告があがった分を見れば、その理由、目的が、半ば達成されらことは明白だった。
 電話口で未だ会話を続ける漉の視界の端、栞屋がのそりと立ち上がって歩き始める。途中、漉の声へ立ち上がって動きを止めたままの楽浪を呼び止め、彼女を伴って、部屋を出た。予想通りのその行動へ少し目を細めて、漉は受話器の向こうへ言いやった。
「栞屋さんが行くみたいだから、ええ、資料についてはそう心配しなくて大丈夫だと思います、はい。……じゃあ、総員引き上げってことで、はい、了解でーす」
 会話を締めくくって、受話器を元へと戻す。はあ、と長いため息をついて、椅子を後ろに引き、浅く腰かけ直す。天井を仰ぎ見て、もう一度、ため息をついた。室内は俄に騒がしくなり、ホワイトボードの前にはまだ片手に少し余る相手の人数しか居ないが、室内に残った人間が寄り集まっている。話し合われているのは、この後の手の打ちようか、それとも、匙谷小唄への恨み辛みだろうか。その職務の特殊性もあり、検閲課には変人奇人が多いと陰口をたたかれることは専らだが、そこは人の集まり、仲間意識というものは人並みにある。このような異常事態の中で、同僚が商売敵に襲われたとあっては、さしもの検閲課員も黙っていられるはずがないのである。
 漉もまた、やり場のない苛立ちをやり過ごすため、橙の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、舌打ちをする。そうして深く呼吸をした後、ほとんど漉専用と成りはてている課の計算機の前へと、椅子を移動させた。
 埃を被ったまま、画面の陰に起きっぱなしになっている、ヘッドホンとマイクのセットを、計算機へと接続する。その片手に、画面上へと立ち上げるのは、どこぞの課で使われているのとよく似たオペレーティングシステムの、改造版だった。
 まずは庁内へ、と漉がヘッドホンをつけようとしたとき、ポケットの中の懐中電話が鳴る。私用のそれは、仕事中にはとらないようにしているもので、緊急事態と呼べる今ならば、なおさらだった。漉は、鳴る電話を切ろうと、ポケットへと手を入れる。しかし、懐中電話の蓋へと指先が触れると同時、心臓を鷲づかみにされてぎゅっと握りつぶされそうになるような、苦しさと嫌な感覚が漉を襲った。
 その感じへ、一旦手を止める。一呼吸を置いてヘッドホンをキーボードの傍らへと置き、ポケットから懐中電話を取りだして、先ほど思っていたのとはまったく逆、その蓋を開いて、通話を繋いだ。
「――もしもし」
「よう、漉」
 電話に出た声は、聞き慣れた……しかし、このタイミングで聞くだろうとは思っていなかった声だった。昨年末に退職―と呼んで良いのかははなはだ疑問が残るが、結果としては退職に他ならない―をした、年上の元同僚、佐田久が、道ですれ違ったときのような気軽さでもって電話口、漉の名前を呼ぶ。さっきの嫌な感じはこれの予感か、と漉は頭が痛み出しそうな感覚へ、ぎゅっと顔をしかめた。
「てめえ、ハイエナか。妙なタイミングでかけてきやがって」
「まずいなら出なきゃ良いのに。……ああ、まずいタイミングだったのか」
「一人で納得してんじゃねえよ」
「ついに荒神にがさ入れでも?」
「…………どうしてそうなる」
 絶妙に近からず遠からずのところをついてきた佐田久の言葉に、漉の反応が一瞬遅れる。その一瞬が命取りであることは、すぐ我に返って考えてみれば、明白にも程があった。そうか、と電話の向こうで、佐田久が軽く笑った調子で呟くのを聞けば、元から険しかった漉の表情が一層険しくなる。
「どちらから仕掛けたんだろうな、後ろが騒がしいのを聞くと特高側か」
「ノーコメント」
「沈黙は金、は初手に限られると思うが……どうせ、ことは今日起こったどころ
じゃないんだろう」
「ノーコメント」
「……そういえば、いくつか雑誌が休刊してたな。あたってみるか」
「お前、本格的に俺らに喧嘩売るつもりか」
 低い声でそう問えば、まさかとの言葉と共に笑い声が返ってくる。それに込められた意味は複数思い当たる。厄介なのを手放しちまったよと、漉は舌打ちして、天井を仰ぎ見た。かつて、今は某雑誌で作家として活躍しているとある先輩が退職したとき、その同輩や先輩方は、こんな気持ちだったんだろうか。
「まあ、ありがとう、漉。確かめたいことは大体分かった」
「今の会話で何か分かったって言えるなんて、お前はよっぽど察しが良いんだな」
「何かあることが分かれば十分だ。調べようは幾らでもあるんだから」
 佐田久が言うことはもっともであり、だからこそ、検閲課という、この世の中においては一見成立しづらい課が、未だに存在しているのである。漉は、今からあなたたちの職務怠慢に甘えに行きますよ、という宣言にも等しい佐田久の声へ、もう反論する気力はなく、眉を寄せたままの険しい表情を保って、口を開く。
「お前……この一件には、絡んでないだろうな?」
「それこそ、まさかだ。俺はただの、巻き込まれた被害者の知人だよ」
 おかしそうな声で佐田久はそう言って、心配してくれたのか、と揶揄するように漉へと問い返した。漉は答えず、舌打ちを一つすると、切るぞ、と低く宣言した。そうすれば、佐田久の方からじゃあ、と挨拶があって電話が切れる。つー、つーと電子音を流すばかりになった懐中電話を見つめて、漉ははあ、と心の底からため息をついた。
 この事件は一体、何なんだと。問うつもりもなかった疑問を、心の片隅において。

++++

 匙谷小唄は、夕焼け色から濃紺に変わりつつある、黄昏時の小道を歩いていた。懐に携えるのは、いくつものカストリの編集部から持ち出した、資料の写真と覚え書きである。
 これが、少しでも手がかりになればええんやけど、と思いつつも、その果てにあるあまり穏便ではない解決を想像して、小唄は秀麗な眉目をほんの少しだけ寄せた。大事にせずというのは無理だが、なるべく、立つ波の小さい方法で解決に向かうのが望ましいのだけれど。
 四つ角へさしかかったとき、くらりと、程度の大きな目眩が小唄を襲う。地震やろか。一瞬にそんな考えが脳裏を過ぎって、立ち止まる。その何でもない一瞬に、小唄の死角、四つ角の向こう側から、一つの人影が飛び出してきた。それは、よろめいて、立ち止まっている小唄の脇腹を蹴り上げて、洋装の胸元をひっつかみ、その華奢な体躯を地面へと引き倒す。両腕を背中側へとひねりあげて、かしゃんと、金属の二つの輪で拘束する。
 その仕打ちに、心当たりは一つのみ。
「んのっ、検閲課あ!」
「その通りだな……楽浪」
 小唄の背中の上へ乗った男が、低い声で名前を呼ぶ。四つ角からもう一つ、出てきた人影は、ゆっくりとした足取りで、頭のてっぺんから結わえた三つ編みを揺らしている。彼女はその歩みを、転がった帽子を足元に、引き倒された小唄の眼前で止めた。
「時刻は」
「ごごろくじさんじゅうにふん……かくほ、するのです?」
「いや……そんな手間はするつもりはないんだがな、一応、確認を」
 ゆる、と小首を傾げた彼女へ、背中の男はそう答える。そうして、小唄の上体を引っ張り上げると、その洋装のジャケットの内側へと、無遠慮な手を突っ込んだ。その手が探ろうとしているのは小唄の体ではない。しかし一瞬、思い出された緊張に強ばった体を、背中の男は鼻で笑う。思い出したかのように暴れようとする小唄の体を脚だけで制しながら、男は小唄の懐から、何枚もの紙を引っ張り
出した。
「どれが危険物かは知らないが……こうすれば、もう何も関係ない」
 男はそれを開くことなく、手の中へ握りつぶしたまま、そう言った。紙が、独りでに発火する。橙色の炎があっという間に紙を包んで、次の瞬間吹いた風には細かな灰が舞うばかり。危険な橋を渡って入手した情報と自分の手とが、一瞬で灰燼に帰す様を見せつけられて、さしもの小唄も目を見張る。
 発火能力者。そういえば、確かに一人、検閲課に在籍していた。もういい加減、いい年であるのに、ほとんど平の課員に近いような身分で、よくよく現場にも足を運んでいる、年嵩の男。名前を栞屋。
 栞屋の手はまた小唄の懐へと突っ込まれて、その中を探っている。骨張った無骨な手はまたも目当てのものをそこから引っ張り出して、小唄の目の前で灰にしていった。
 なんという行いだろう。やり場のない怒りと呆れがない交ぜになったひどい心もちで、小唄はぐいと首をのけぞらせ、自分を拘束する男をせめて睨めつける。白髪交じりの髪の男――栞屋はその視線を面白がるようにす、と目を細めると、また、小唄の懐から引っ張り出した紙を、燃やす。
「さて、これで全部か? 小娘のストリップなんざ見たくないから、出来ればそうであって欲しいもんだな」
「誰が、小娘やて。アンタの目ぇは節穴か」
「おっと。口の聞き方には気をつけろよ。全身の熱傷で病院に運ばれたいなら、まあ話は別だが」
 ぎり、と腕の関節を締め付けるようにねじり上げながら、栞屋はそう告げて、うすら、口元へ笑みを浮かべる。身体的に優位に立っているからというだけではない、不自然なほどの余裕をたたえたその様子は、年の功と切って捨てれば分かりやすい。しかし、それにしても不自然なまでの、腹立たしさを覚えるほどの、その態度。つとめて冷静さを欠かないように気をつけながら、小唄は口を開く。
「アンタさんらも、正義を騙った権力の狗か。嘆かわしいなあ」
「正義?」
 小唄の言葉を、栞屋が鼻で笑う。予想外の反応に、続きの言葉を口にするはずだった艶めいた唇は閉ざされる。代わりに、年を喰った男の焼けた喉から発せられる低く掠れ気味の声が、可笑しさをこらえながらといった調子で、続きを言った。
「作家先生の口からそんな言葉が出るとは、流石、夢想に生きる世捨て人だ。まさか、それの存在を信じているわけでもあるまいに」
「君らがその言葉を切って捨ててええんか。仮にも、特別高等警察の一員やろ」
「……ああ、確かにその意味では嘆かわしいな。本庁の若い連中は、あまりにもその言葉に魅せられた阿呆が多すぎる」
 はあ、とため息をつく様は、確かに憂いを帯びている。しかしそれが今、目の前に起こっている事態に対してでないのは明白であり、それはつまり、小唄の言葉なぞ栞屋には痛くもかゆくもないということだった。
「警視長もまあそうだ。刑事畑からの叩き上げじゃあ、仕方ないんだろうが……」
「なんや、今回の一件、そういうことやと思うてるの」
「可能性がある以上、考えておくことは必要だ。神王陛下のご意志である可能性も、荒神側の狂言である可能性もな」
「その割に、君らは情報を統制しよう、隠蔽しよう。それは組織の保身に他ならんの違うか?」
「それの、何が悪い」
 静かながらもじわじわと問い詰めるようである小唄の言葉へ、視界の端、紅い袴がゆらりと揺れるのは見えた。しかし、小唄の両腕を拘束する男は動じない。動じないまま、栞屋はまた、鼻で笑う。
「必要だから情報を隠す。或いは情報を流す。それが俺たちの役割だ、何も後ろ指を指されることなぞない。ただ、勘違いするなよ。それは正義の名の下においてじゃない。秩序安寧の為の必要悪か、さもなくば舞台装置として、働く為だ」
「秩序安寧? それこそ夢想や、砂上の楼閣や。そんなもん、どこにもありゃあせん」
「だが、大多数の国民はその上へ暮らしている。何にも気付かず、何も思わず。それを家畜の平和と思うのは勝手だが、勝手にくびきを解いて良いことにはならんだろう。少なくとも検閲課は――その秩序安寧の維持のために在る」
「ほんまに、勝手なご高説やね……!」
「そうだな。だが、この一見で結局特高が潰れようが荒神が潰れようが構わないと思っている点では、俺は誰より公平だと思うがな。潰れたということは……そこまで、もう必要がないものだということだから。しかしまだ必要だと、そう世の中が動くのならば、それへ従って職務を実行するまでだ」
 それで満足したらしい栞屋は口を閉ざすと、自分の懐へと手を入れる。小さな鍵で、小唄をの両手首に嵌められていた手錠の鍵を外した。するりと金属の輪を抜けば、すぐ、身を翻そうとする背中を膝で押さえつけて、楽浪へ目配せする。軽い船酔いのような浮遊感にわずか、顔をしかめつつ、地面へ額を打ちつける小唄の上体からジャケットを剥ぎ取り、それを発火させた。
 背中に熱を感じながら、憎々しげに顔をしかめる小唄の目の前へ、先ほどから立ち止まっていた人影がしゃがみこむ。
「さじたにこうたせんせい」
 ゆったりとした声音は、口調もやはりゆっくりとしたまま、しかし決然とした意志の籠もっているように、揺らがずぴいんと芯が通っている。
「あなたがおっしゃるせいぎも、たしかにただしいのかもしれません。わたしたちはまちがっているのかも、しれません。だからといって、あなたがされたような、わたしたちのなかまをきずつけるこういは、わたしのせいぎに、はんします」
 だから、いやがらせです。囁くような声の後、一層強いめまいと、吐き気とが小唄を襲う。それを耐える為に目を閉ざしていれば、眼前の気配が立ち上がる音と一緒、背中がふっと軽くなった。お前も、やるなあ。そんな、低い声が、目を閉じたままの小唄の耳に聞こえた。
 黄昏の、細い道でのこと。

 
  1. xoginomex posted this