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 「資本主義」という日本語は「主義」とあるので、なにか思想の主張のように思う人もいる。だが資本主義(capitalism)というのは、資本という貨幣(G:Gelt)を、商品(W:Ware)に変え、さらに多くの貨幣(G’)を生み出す、つまり、G->W->G'という貨幣増大化の循環の現象を指している(G'はGより増加)。一般的に英語の"-ism"には、"alcoholism(アルコール依存症)"のように、現象を指す意味合いが含まれる。
 この「G->W->G'」の構図はマルクスによるもので(ただし彼は"Kapitalismus"という語は積極的には使っていない)、彼の考えで重要なのは、商品(W)が「労働力(Arbeitskräfte)」でもある点だ。ここで人間疎外と資本主義体制の問題が関連する。別の言い方をすれば、W->G->Wでは生じない剰余価値(Mehrwert)のありかたが、この生産様式を含む体制のなかで問われることになる。単純に考えると、「資本主義(G->W->G’)を排除すればよい」「資本主義の限界だ」という安易な議論にもなりがちだ。
 このあたりの議論はもっときちんとつめないといけないのだが、ざっくりと言えば、マルクスの考えの枠組みでは、生産様式に対して資本を担う資本家(Kapitalist)と労働力という商品を担う労働者(Arbeiter)がそれぞれ、人間のタイプ化である階級(Klasse)として固定的に扱われ、社会を構成する市民間の分断に重ねられている。階級間の闘争が市民間の闘争になぞらえられてしまう。
 実際には(その後の歴史発展では)、マルクス以降の資本主義社会では、資本家(Kapitalist)労働者(Arbeiter)は実体的な階級ではなく、資本主義の生産様式を担う機能単位となり、人間実体とは直接的には結びつかなくなった。ごく簡単な機能例でいえば、労働者がそのまま資本家となりうる。
 労働者が資本家になるという点では日本の戦後体制がそれに相当する。国家が主導し、労働者の富を利潤誘導した郵貯の形で収集・迂回投資させることで、資本家の機能を実現させていた。同時に資本家は国家に吸収されたので、冗談のようだがある意味で、日本で社会主義が実現されていた。
 だが問題が起きる。日本の特殊な国家社会主義が上手に機能すればよかったのだが、これもいろいろな議論があるが、実際のところ、この収集・迂回投資の機能が、労働者=国民=投資家と対立した形で、実体的な階級を形成してしまい、ようするに国家にむさぼりつく度合いで、国民間に実体的な階級が生まれた。またこの社会主義は列島改造論に典型的だが地域への再配分的な投資でもあり、地域が中央権力に結合した。かくして実質的な差別と非合理性が生じることになった。このシステムは同時に、暗部の富も生み出した。汚れ役のようなものである。日本という社会主義は必然的に暗部を必要するシステムでもあった。
 まとめれば、親方日の丸の度合いで日本国民間の貧富が決定づけられることになり、さらに、この国家システムの外部の暗部を吸収して富による社会暗部が形成された。
 
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