"本来国民には職業選択の自由があって、弁護士になりたいものは誰でもなれるというのが大原則です。しかし、法律のイロハも知らないものが弁護士になると、本人がいかに誠実で交渉力のある人間でも、依頼人または相手方に迷惑をかけるおそれがあるので、最低限のレベルは法律で義務づけようというのが、本来の司法試験の趣旨であるべきです。そうであれば試験で合格最低ラインの点数をとった者は全員が合格者となるべきで、合格者の数に制限があるのは不当です。調理師や自動車整備士あるいは運転免許の試験で合格者の人数に上限はないはずです。誰が優秀な弁護士で、誰がそうでないかを決めるのは自由競争の市場で消費者がすることで、司法試験が決めることではありません。司法試験の合格者に制限があるのはなぜでしょうか。それはこの試験が実は単なる資格試験でなくて、司法修習所という法律専門学校の入学試験だからです。そして、現在の日本の司法制度とはこの学校の卒業生でなければ、弁護士はおろか、判事にも検事にもなれないと言う制度なのです。

 各種の資格制度が彼らに特権を与え特別の役割を担わせる目的はないと思います。それは消費者保護、民主主義一般の原則に反します。彼らの資格が有効なのは限定され、明記された職務の範囲内に置いてであり、その範囲はむやみに拡大することは許されません。その範囲外では何らの特権もないはずです。彼らの社会への貢献として期待されるのは、あくまで本業を通じて、より良いサービスをより低廉な価格で提供することによってのみだと思います。何がより良いサービスかを決めるのは消費者であって、有資格者ではありません。

 弁護士法が「弁護士の使命」で弁護士に求めている、人権の擁護、社会正義の実現、法律制度の改善は、あくまで本来業務である「弁護士の職務」(依頼人の依頼を受け依頼人のために代理人として法律行為を行い、対価を受け取る)を通じてという意味であると思います。そういう限定なしに特別な役割、特別な使命を求めるのは、国民はその職業にかかわらず法の下に平等であるという、憲法に違反するものであると思います。
依頼人の依頼にる代理人としてでなく、自ら当事者になって行う行為は弁護士の職務ではありません。単なる一個人としての行動です。また、単なる一個人としての行動には何の資格もいりません。

何が基本的人権なのか、何が社会正義なのかは人によって考え方は異なります。それを決めるのは、政治であり、裁判であり、弁護士ではありません。法律制度の改善といっても、何が改善で何が改悪かは人によって考えが異なります。法律の制定、改廃は政治であり、政治は民主主義の原則に基づいて、国民の正当な代表によって行わなければなりません。弁護士はいかなる意味でも国民の代表ではありません。従って弁護士が依頼人の代理人としてでなく、これらの問題に直接関与することは、一個人としてでない限り、本来の業務範囲から逸脱した行為と言うことになります。

 弁護士会や日弁連が、個別の事件に関与し、勧告や警告を発したり意見書を送りつけたりする行為は、弁護士法にその根拠を見いだすことができません。"

平等と民主主義に反する日弁連

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