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発達診療の窓から

@kazutoshitakahashi / kazutoshitakahashi.tumblr.com

みなさまこんにちは。私は函館で発達にかかわる診療をしている医師です。もともとの専門は小児科ですが、現在は大人の方にもお会いしています(※平成28年1月現在、新規受診の待機期間が2年を超えたため、現在は就学前の方のみ新規受診の受付をさせていただいています)。このブログでは、診療を通じて感じていることや個人的な雑感までを不定期に綴っていきます。過去の投稿はこちらまたはArchiveをご覧ください。コメントされたい方は、各記事のタイトルをクリックしていただくとコメント欄(Disqus)が現れます。
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57. 感染者の個人情報はどの程度まで公開されるべきか

函館市で3か月ぶりに新型コロナウイルス感染症の罹患者が出た。年齢、性別、感染が疑われる場所など非公表の情報が多く、情報公開を求める声がSNS上でも目に付く。しかし、本当に今必要なのは、個人情報の公開なのだろうか?

私は、今一番大切なのは、冷静な態度を維持し、感染した人とその家族を(感染の経緯にかかわらず)地域の中で守る、という強い意志を私たち一人ひとりの市民が示すことだと思う。

なぜなら、感染者が特定され、本人や家族が「穢れ」のように扱われ、感染の経緯についての非難が相次げば、もし自分が感染したり濃厚接触者になったとき、それを隠そうとする方向への圧力に転じてしまうからだ。そうなれば感染経路を特定して感染拡大を防ぐことを困難にし、結果的に感染を広げる役割を果たしてしまう。

確かに感染者がいる場合にはその感染経路を明らかにし、濃厚接触者を同定し、感染拡大のために必要な措置を取ることは非常に重要だ。関係者の方々にはその点について最善の努力をしていただきたいと思う。

しかし、そのためにすべての市民が感染者についての個人情報を知る必要はないし、むしろたとえ感染したとしても個人情報の保護が保証されているということが、結果として多くの人たちの安心感につながり、感染経路の特定を容易にし、感染の早期の終息につながる。

そしてそれが結局は「この地域に暮らしてよかった」と感じられる、だれもが暮らしやすい地域への一里塚になるはずだ。

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56. 大規模停電。そのとき小さな声は聞こえていたのだろうか。

2018年9月6日午前3時8分、胆振地方を震源とするM6.7の直下型地震が北海道を襲った。そして、それに引き続く停電により北海道全域が大きな打撃を受けることになった。

私の勤務する療育センターも大きな影響を受けた。地震当日の9月6日は全面的に休業し、情報が届かず直接来所された方にのみ手書き処方箋の発行と後日の会計で対応した。翌9月7日は朝に電力が復旧したため午前は設備の点検と復旧作業、避難手順の確認にあて、午後から通常業務を再開した。

診療が始まり、電話連絡も可能になると、地震や停電にも意外に落ち着いていたという方がいた反面、やはり調子が悪く自宅で過ごすことが大変だった、という声も聞かれるようになった。変化に弱い障がいのある人たちにとって、普段通っている園、学校、施設が急に休みになり、しかもテレビも見れず、インターネットも繋がりにくい、普段食べているものが手に入らない、外出もままならない、という普段とは全く違う状況の中で過ごすことはやはり大変なことだと思う。ましてや、停電が長期化したり、自宅を離れ避難しなければならない状況になったとしたら、今回とは比べ物にならない混乱が生まれたことは想像に難くない。

函館は地震から丸2日で殆どの地区の停電が解消した。停電中に多くの方々がそれぞれの立場でできることを続けられている様子はラジオやツイッターを通じて伝わってきたし、復旧に向けて懸命の努力を続けられた関係者の方々の努力には頭が下がる。多くの方々の自主的な、あるいは組織的な働きがあってこそ、この地域が大規模停電から大きな混乱なく復旧することができたことは間違いない。

しかし、この2日間、私の中ではなんとなく釈然としないものがあった。私自身、そしてこの地域が、この期間、障がいのある人たちが必要としているサポートを本当に届けることができていた、と胸を張って答えられる自信はない。少なくとも、助けを求めたいと思ったとしても、窓口まで直接来ていただく以外に私たちに直接連絡を取る手段はなかったし、困った人がどこへ、どうやって助けを求めたらいいのかを明確に示した公の情報は見当たらなかった。ましてや、自ら発信できずにいる小さな声を積極的に拾い上げ、まとめ、支援へとつなげる動きも(少なくとも私には)見えなかった。ということは、もし、もっと大規模で深刻な災害に見舞われた場合、この地域には、障がいのある人たちに組織的な支援を提供できる体制はない、ということなのではないか。

東日本大震災の教訓を踏まえ、各地で障がいのある人たちへの災害時の支援体制が検討されてきたたはずだ。私自身、本を読んだり、勉強会に参加したりして、自分なりに準備をしてきたつもりだった。しかし、今回の災害を通じて感じたのは、いくら知識があっても実際にそれを運用できる体制を準備しておかなければ絵に描いた餅にすぎない、というごくごく当たり前の事実だった。おそらくそんなことはとっくにわかっていたことなのだ。ただ、実際にそれを準備しようと思うと、膨大なマンパワーや資金を必要とすることは間違いない。そしてその事実と真剣に向き合うことは、それほど容易なことではない。だからこそ、だれもがその必要性を感じつつ、どこかで考えること、議論することを避けていたのではないだろうか。

普段ですら不足が叫ばれているほど限られた資源しか持たない地域が、災害時の問題にどう対処していけるのか。いまさらながらといわれるかもしれないが、今回の停電の経験は、新たな課題を私に突きつけている。

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55. 厚生労働省班研究:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第3報)~薬物療法の分析~

平成28年度(2年目)の厚生労働省班研究では、この前のブログで紹介した知的障がいの方の入所施設職員の意識調査に加えて、薬物療法の実態についての調査を行いました。対象は1年目の研究と同じ、社会福祉法人侑愛会の8か所の施設に入所している方444名です。

社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第3報)~薬物療法の分析~

入所者の90%以上の方が何らかの薬物療法を受けており、多剤療法が一般的でした。一人当たりの薬剤の中央値は6種類、最も多い人では27種類になっていました。このまま何も手を打たなければ、高齢化と医療の高度化によって今後さらに複雑になっていく可能性もあり、薬物療法の単純化・簡略化に向けての戦略が必要です。

************ <研究要旨> 8か所の障害者支援施設で生活している444名(男292名、女152名)を対象に薬物療法に関する調査を行った。403名(90.8%)が何らかの薬物療法を受けており、一人当たりの薬剤数の最頻値は4種類、中央値は6種類で、最も多い人では27種類の薬剤を使用していた。年齢が上がりADLが下がると使用薬剤数は増える傾向があり、医療的ケアを受けている場合には薬剤数が有意に多くなっていた。使用薬剤の種類では精神・神経科薬が最も多く、皮膚用薬、消化器用薬がそれに続いていた。精神・神経科薬の内訳は抗てんかん薬が最も多く、次いで抗精神病薬、パーキンソン病治療薬、睡眠薬となっていた。精神・神経科薬の使用率は57.9%であった。抗てんかん薬の使用率は36.3%で、そのうち単剤が37.9%、2剤以上が62.1%、抗精神病薬の使用率は31.8%で、うち単剤が62.4%、2剤以上が37.6%、睡眠薬の使用率は27.9%で、うち単剤が82.5%、2剤以上が17.5%だった。高齢化の進展とともに薬物療法のさらなる複雑化が予想され、薬物療法の単純化・簡略化のための仕組みを整えていくことが必要であると考えられた。 ************

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54. 厚生労働省班研究:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第2報)~職員アンケート調査から~

平成28年度(2年目)の厚生労働省班研究(市川班)では、1年目の調査の対象となった社会福祉法人侑愛会の8か所の入所施設で、施設職員278名を対象に医療的ニーズに関するアンケート調査を行いました。

社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第2報)~職員アンケート調査から~

職員の意識としても「正確に実施できているか自信がない」など医療的ケアには困難を感じており、1年目の入所者側からの研究同様、職員の視点からも医療的ニーズが施設運営にとって深刻な課題となっていることが裏付けられたと言えます。

*********** <研究要旨> 社会福祉法人侑愛会の運営する8か所の障害者支援施設に勤務する職員278名を対象に、医療的ニーズに関するアンケート調査を行った。医療的ケアを含む医療的側面を持つケアには80%以上の職員が困難を感じると回答し、特に看護師以外の支援職員にその傾向が強かったが、看護師も2/3が困難を感じると回答していた。困難を感じる理由としては「正確に実施できているかどうか自信が持てない」が最も多く、経験年数が長い職員や管理職の方がむしろケアに対して困難を感じている傾向があった。入所者によるケアの拒否は2/3の職員が経験していた。医療機関の外来受診付き添いは職員の80%以上が、過去3年間の救急搬送付き添いと入院への付き添いはいずれも職員の約30%が経験し、困難を感じる点としては通常とは異なる業務に職員の手を取られることが最も多く、医療機関の利用に困難を感じないという回答は少数だった。すべての施設で種々の健診・検診を定期的に実施していたが、困難を感じる点としては本人の拒否を挙げる回答が最も多く、困難はないとする回答は約1/4だった。障害者支援施設において、医療的ニーズが施設運営にとって深刻な課題となっていることが職員の視点からも裏付けられた。 ***********

平成28年度の研究報告書の全論文はこちらからダウンロードできます。 http://mhlw-grants.niph.go.jp/niph/search/NIDD00.do…

<総括研究報告書>

  • 市川宏伸:医療的管理下における介護及び日常的な世話が必要な行動障害を有する者の実態に関する研究 研究代表者

<分担研究報告書>

  • 市川宏伸:知的障害施設における福祉と医療の連携の現状と方向性 研究代表者
  • 高橋和俊:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第2報)~職員アンケート調査から~ 研究分担者
  • 高橋和俊:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第3報)~薬物療法の分析~
  • 市川宏伸:行動障害の状態にある知的・発達障害者に対しての支援に関する児童精神科医の関わりの実態に関する研究 研究代表者
  • 小倉加恵子:知的障害児者施設における医療の課題と方向性に関する研究
  • 曾田千重:療養介護病棟の役割の明確化と、地域移行に向けた福祉との連携
  • 市川宏伸:発達障害入院患者についてのアンケート調査(日本精神科病院協会)
  • 志賀利一:精神科病院から障害者支援施設に移行した強度行動障害者の支援 研究分担者
  • 井上雅彦:小児科外来における発達障害児へのプレパレーションの効果に関する検討
  • 志賀利一:地域で生活する知的障害者の健康診断の実施状況について 研究分担者
  • 市川宏伸:知的・発達障害者の人間ドック実践の実際と課題 研究代表者
  • 市川宏伸:知的・発達障害児者における、新たな人間ドック開始の試み 研究代表者
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53. 厚生労働省班研究:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第1報)

私は、平成27年度から厚生労働省の研究事業(医療的管理下における介護及び日常的な世話が必要な行動障害を有する者の実態に関する研究:市川班)で知的障害がある人たちの医療的ニーズに関する分担研究を担当しています。

3年間を予定しているこの研究事業の1年目と2年目の報告書が厚生労働省科学研究成果データベースで公開されました。

1年目となる平成27年度は、社会福祉法人侑愛会の8か所の施設に入所している知的障がいのある成人の方444名を対象に、医療的ニーズの実態を調査しました。

社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第1報)

詳細はリンクのpdfをご覧いただければと思いますが、結論としては高齢化と医療の高度化に伴い知的障がいの方を対象とした入所施設でも医療の必要性が増大し、それに対応する制度や施設整備が必要となっているというものです。

以下に抄録を掲載します。

************** <研究要旨> 社会福祉法人侑愛会の8か所の入所施設(障害者支援施設)を対象に、入所者の医療的ニーズに関する調査を行った。平成27年4月1日時点で入所していたのは444名(男292名、女152名)で、18歳から90歳まで幅広く分布し、年齢の中央値は男45.3歳、女50.5歳だった。知的障害は重度~最重度が2/3を占めていた。日常生活動作(ADL)はBarthel Indexで5点から100点とばらつきが大きかったが、年齢が高くなるほど、また知的障害が重くなるほど、ADLは低下していく傾向があった。医療的ケアについては、明確な医行為に限っても120件(入所者3.7名につき1件)が行われており、医療的ケアを受けている人たちは年齢が高くADLが低い傾向があった。医療機関は過去1年間(入院は3年間)に440名(99.1%)が何らかの形で利用し、医療と全く関わりなく生活していたのは4名(0.9%)のみであった。403名(90.8%)は何らかの薬物療法を受けており、多剤併用が一般的であった。外来受診は一施設当たり一日5.3名、入院は入所者一人当たり年間1.27日であった。医療的ケア、薬物療法、医療機関の利用など、医療の必要性が施設運営に大きな影響を与えている状況がうかがわれ、今後、これらの状況を踏まえたうえで入所施設の体制整備について再検討する必要があるものと考えられた。 **************

報告書の全論文はこちらからダウンロードしていただけます。 http://mhlw-grants.niph.go.jp/niph/search/NIDD00.do…

<総括研究報告書>

  • 市川宏伸:医療的管理下における介護及び日常的な世話が必要な行動障害を有する者の実態に関する研究 

<分担研究報告書>

  • 市川宏伸:知的障害施設における福祉と医療の連携の現状と方向性  
  • 高橋和俊:社会福祉法人侑愛会の入所施設における医療的ニーズに関する調査(第1報)
  • 市川宏伸:発達障害入院患者についてのアンケート調査(全国児童精神科医療施設協議会)
  • 市川宏伸:知的・発達障害入院患者の医療についての調査 
  • 内山登紀夫:知的・発達障害者の成人精神科病院への入院治療の現状  
  • 堀江まゆみ、田中恭子:イギリスにおける知的障害のある人への健康維持および医療受診支援に関する調査
  • 志賀利一:障害者支援施設等における健康診断の実施状況について  
  • 市川宏伸:障害児者の健康度調査の現状 
  • 井上雅彦:小児科外来における発達障害児へのプレパレーションの効果に関する検討
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52. 飲食店の閉店に思う

今日はなんだかショックなことがあった。

外出から帰宅した妻から聞いたのだが、私たちがときどきお世話になっていた飲食店がひっそりと閉店していたらしい。私たちが函館に転居したころにできたお店で、味もお店の雰囲気もオーナー夫妻のお人柄も、私たちにはとても良く思えていたのだが…

函館はこのサイズの街としては飲食店、特に洋食系レストランのレベルが高い。都会から来た方が辛口の評価をすることもあるが、素材の良さも含めたコストパフォーマンスという意味では公平に見てかなりのものだと思う。もちろん大都会には素晴らしい飲食店がたくさんあるのだろうが、大枚をはたかなければならなかったり、かなり努力して探さなければならなかったり、ずっと前から予約しなければならなかったりと、それなりにハードルが高い。それに比べれば、函館では気軽に入ることができる味よし雰囲気よしのお店がそこかしこにある。

ただ、レベルが高いということは競争も激しいということだし、コストパフォーマンスが良いとか気軽に入れるとかいうことは、お店の側からするとコストを抑え、顧客を確保するために並々ならぬ努力を続けているということでもある。実際、新しい飲食店ができては消え、という姿をこの10年、何度も目にしてきた。

しかも飲食店は大変な重労働だ。ランチやディナーの時間はもちろんのこと、仕入れや仕込み、お店の掃除や飾りつけ、食器や調理器具のメンテナンス、広報など、いったいいつ休みがあるのだろう、と思ってしまう。

だから、私は函館の飲食店、特に気に入ったお店は応援したいとずっと思ってきた。もちろん毎日のように食べ歩くことは時間的にも経済的にもできないが、外で食事をするときには料理だけでなく必ず飲み物を一緒に頼むようにしている。飲める時にはアルコール、飲めないときでもノンアルコールビールか甘くないソフトドリンク。ワンプレートやセットメニューなら1杯のこともあるが、コースなら2杯以上にする。

これは確かに私が経済的に一定以上の安定を得ているからこそできることであって、すべての人がそうすべきだと思っているわけではない。ただ「食」に対して求められている有形無形の低価格化の圧力に対して、なんとなく釈然としないものを感じるのもまた事実なのだ。

しばらく前に、ニーチェの言葉をもじったこんなツイートがあった。

「お前が低価格を覗き込むとき、低賃金もまたお前を見ているのだ。お前が無料を覗き込むときには、ただ働きがお前の足首を掴んでるのだ」
(by 葛西伸哉さん@kasai_sinya)

自営業なのだから自己責任、自由競争こそが社会の発展を生む、低価格化は消費社会の正義、という考え方もあるだろうし、それが一面で真実であることは否定しない。

しかし、血のにじむような努力やずば抜けた才能、人をうならせるアイデアで勝ち抜く人しか生き残れない社会、勝者と敗者に分かれて争うしかない社会なら、その刃はいつか必ず自分に向いてくるような気がしてならない。普通の才能で、普通の努力で、普通に生活できる社会は、いったいどうしたら可能になるのだろうか。

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51. 高い山は広い裾野を必要とする

スポーツや楽器演奏などのような一定のトレーニングを必要とする分野では、レベルの高さはその分野の人口規模に強い影響を受けます。たとえばチェスでは、国ごとのプレーヤーの数とタイトル保持者の数との間に高い相関があることが知られています。実際にプレーしたり演奏したりする人だけでなく、ファンとして応援する人やその世界にあこがれる人の数が多くなれば、やはりレベルを高めることに寄与するでしょう。逆に言えば、楽しみとして参加する人もファンも少ない場合には、全体としてレベルを保ち、高めていくことはかなり難しくなります。

私たちがかかわる支援の分野にも同じことが言えます。支援の基礎になる、いわゆる支援技法やその背景にある考え方には様々なものがあります。自閉症支援の分野では、応用行動分析学、そこから生まれた絵カード交換式コミュニケーションシステム(PECS)などの支援体系、TEACCHプログラムなどの包括的・全人的な支援プログラム、そこで発展してきた視覚的支援などの支援技法、英国自閉症協会が提唱するSPELLフレームワークなどです。これらの中には、正しい考え方や方法をきちんと伝えるための教育プログラムや資格制度を設けているものが多くなってきました。はじめから教育プログラムや資格制度がセットになっていたものもありますし、理解が不十分なまま行う人が増えたことが問題になり、比較的新しく導入されたものもあります。

基本的にはこれは正しい方向です。スポーツでも、正しいやり方で行わなければ上達を妨げたり大怪我につながったりします。私たちの支援でも、見よう見まねだけの間違ったやり方が支援を受ける人の人生に深刻な影響を与えてしまったり、成果の上がらない支援が支援者の意欲をそいでしまったりすることは十分に考えられるでしょう。ですから、正しい教育を行い、知識と技術を持った人たちをしっかり認定する制度が重要であることに疑いの余地はありません。

ただし、このような教育プログラムや資格制度が陥りやすい罠もあります。それは、それらがあまりにも厳格になりすぎることで、携わっている人たちの層が薄くなり結果的には全体としてのレベルが向上していかないという問題です。これをサッカーを例に考えてみましょう。入団テストに合格してプロチームの下部組織に所属しなければサッカーボールに触ることはできない、ということになれば、長期的にはサッカー人口は減少し、その国のサッカーのレベルは下がっていくでしょう。あるいは、教えることのできる人は認定を受けたプロのコーチだけ、ということになり、非公式な「教える」行為が厳しく取り締まられるようになれば、親が子どもにサッカーの素晴らしさや楽しさを伝えることも難しくなってしまうかもしれません。サッカー大国ブラジルを支えているのは厳格なサッカー教育というよりも、むしろたくさんの子どもたちが路地や空き地で「サッカーもどき」に興じ、老若男女がひいきのチームの勝ち負けに一喜一憂するという、分厚いサッカー人口によるところが大きいでしょう。

私が出会うほとんどの支援者に共通しているのは、程度の差こそあれ「いい支援をしたい」という思いです。そのような人たちの多くは、特定の支援技法への関心自体が支援を学ぶための原動力になっていることはまずありません。むしろ、身近にその支援を行っている人がいるような、ハードルが高すぎない現実的な支援技法とそれを学ぶ機会を求めていることの方が多いでしょう。このような人たちが大多数を占める支援の現場で全体のレベルを上げて行こうとすれば、厳格な教育プログラムと資格制度の正統性を強調していくだけでは、決して十分ではありません。むしろ、制度の運用の仕方によっては、「正しいやり方」が少数の限られた人たちだけのマニアックな名人芸という誤解を生み、多くの人たちにとって煙たい、縁遠い存在になり、長期的に見ると全体的な支援のレベルを下げてしまう可能性すらあるかもしれません。

ですから、私たちがある支援技法の有効性を感じ、それを正しい形で普及させていこうと考えれば、その正確性・正統性にこだわるだけでなく、できるだけ幅広い人たちに知ってもらい経験してもらえるような懐の深さも必要です。確かに普及すればするほど支援も玉石混交になり、特定の支援技法の名の下で不適切な支援が行われる可能性は増すかもしれません。それでも、携わる人が多ければ多いほど優れた力を持つ人たちもまた多くなり、思ってもみなかったような発展を見せる可能性も高くなります。サッカーを楽しむ人が多かったからこそ、そこからラグビーやフットサルが生まれ、独自の発展を遂げたのです。

私が懸念しているのは、優れた支援の考え方や技法が、それに傾倒しその有効性を主張する一部の人たちによる、閉じた世界になっていってしまうことです。「正しくかつ正統的でなければならない」という一見正しい、しかし偏狭な教条主義によってその世界が広がりを欠いたものになり、やがては廃れていくかもしれない。優れたものであればあるほど、私にはそのことがとても残念に思えます。

私は支援に関する正統的な教育プログラムとそれに基づいた資格制度を否定しているわけではありません。むしろ、そのようなきちんとしたシステムを確立すること、そしてそれを尊重することには大賛成の立場です。しかしその一方で、多くの人たちの身近に「それなりの」レベルの実践があり、肩の力を抜いて学べる入門的な機会があり、そしてそれを実践している人たちのコミュニティーに様々な立場やレベルを許容できる包容力がある、ということがとても大切だと考えています。そのような基礎的な構造があって初めて、「おおよそ正しい」ことでは飽き足らなくなり、もっと深く、正しく学びたい、と考える人が出てくるのではないでしょうか。幅広い裾野を基礎にして自然に山が高くなっていく。それが望ましい発展のしかたであり、普及し長く続いていくための条件ではないかと思っています。

高い山は広い裾野を必要とする。優れた支援にとっては、トップのレベルの高さと携わる人の広がりの、そのいずれもが大切であることを忘れないでいたいものです。

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50. 東北訛り

故郷の宮城を離れ、東京で働くようになり数年が過ぎたころのことだったと思う。自分が田舎育ちであることに引け目を感じ、地方独特の人間関係のわずらわしさやどこか封建的な体質にも息苦しさを感じていた私は、大学院での研究が思うようにいかなかったこともあり、院を卒業するとすぐ過去を断ち切ろうと上京することを決めたのだった。

当時、私は重症心身障がい児専門の病院に勤務していた。朝に出勤すると、まず医局の前に置かれた出勤簿に印を押す。ときどきそのあたりを掃除している年配の女性が私の注意を引いた。その話し方には聞き覚えのある東北の訛りがあったのだ。私の母親と同じかやや若いぐらいだっただろうか。いつの間にか、私はその女性に廊下で会うと言葉を交わすようになった。

東京で生活している東北人は訛りを隠そうとする傾向がある。私が東京で出会った東北出身者は、たいてい全く訛りがないか、あってもごく微妙なイントネーション程度だった。私自身も標準語でほとんど訛りを交えずに話すことができたし、田舎育ちと東北訛りが劣等感になっていた私にとって「ぜんぜん訛りがないですね」という言葉は一種の誉め言葉として響いた。しかし、その女性は、東京ではなかなか聞くことのできない明らかな東北訛りで話した。

混じりけの少ない方言には、独特なリズム感と響きがある。過去を捨てたつもりで帰省すらしなくなっていた自分が東北訛りに一種独特な美しさや心地よさを感じたのは、我ながらちょっとした驚きでもあった。それ以来、その女性と挨拶や短い言葉を交わす一瞬が自分にとっては特別な時間になった。石川啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という有名な短歌が思い起こされた。

数年が過ぎ、私は海外に勉強に行くために勤めていた病院を辞め、それを機会に結婚もすることになった。私が退職する日、上司が私のところに立派な室内装飾品を持ってきた。「掃除の○○さんからですよ」との言葉に私は驚いた。私にとっては一種特別な存在だったとはいえ、ごくたまに短い挨拶をする程度の人から祝いの品をいただこうとは、全く予想もしなかったことだった。その人に私が東北出身だという話をした記憶はなかった。私の話し方にごくわずかな訛りを感じ、同郷だと察知していたのだろうか。今となっては、あまりの忙しさにまぎれて直接お礼をしそびれてしまったことが悔やまれてならない。

東北を離れて20年以上が過ぎたが、時間も、住む場所も、私の中の東北人としての強固なアイデンティティーを消し去ることはできなかった。それは確かに、訛りを恥じる傾向、田舎であることに対する引け目、東北の置かれている状況に対する複雑な思い、そういったものと東北人としてのプライドの混じりあった、独特な陰影を伴ったものだ。ただ、そのことが私の思考を鍛え、行動の原動力になり、今の私自身を形作る大きな力にもなってきたと、今になって思う。

私の自宅には、あのときにいただいた室内装飾品が今でも飾ってある。ときどきそれを眺めながら考える。自分は東北人で、それでよかったのだ、と。

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49. 早期介入のエビデンスは必ずしもスクリーニングを正当化しない

発達障がい、特に自閉スペクトラム症については、従来から早期発見、早期介入の重要性が強調されてきました。早期介入の長期的な効果や新たな早期介入技法に関するエビデンスも次々に発表されています。今や、早期介入は世界的な潮流と言っていいでしょう。現在一定の効果が確認されているのは、主に2歳台での集中的な介入です。その時期に介入を行おうとすれば、少なくとも2歳台あるいはそれ以前の早期診断が必要です。日本では世界に類を見ない乳幼児健診のシステムがあり、それを活かした発達障がいのスクリーニングが注目され、様々な取り組みが行われてきました。その背景には「スクリーニングの正当性は早期介入の効果によって担保されている」という暗黙の前提があります。

私も当初はスクリーニングの必要性を当然のこととして受け入れていました。しかし、実際の臨床場面でたくさんの子どもたちや保護者の方々とお会いする中で、どこか釈然としないものを感じるようになっていきました。それは、自分の行った早期診断が必ずしも診断を受けた人たちを幸せにするとは限らない、という忸怩たる現実に直面するようになったからです。特に、保護者が十分に納得していない状態で乳幼児健診から紹介されてくる場合ほど、その傾向が顕著でした。私は次第に「早期診断・早期介入が有効だとしても、本当にできるだけたくさんの人たちを網羅的に診断すべきなのだろうか?」と疑問を感じるようになっていきました。

私の疑問が(少なくとも部分的には)氷解したのは、欧米各国が言語発達遅滞や自閉スペクトラム症のスクリーニングに関するガイドラインを発表していることを知ったからです。英国、カナダ、米国の最新のガイドラインは、保護者や臨床家が問題を感じていない段階での言語発達遅滞や自閉スペクトラム症に関するスクリーニングを推奨していません。その理由は明快です。早期診断・早期介入の効果にエビデンスがあったとしても、スクリーニング自体が予後の改善につながるというエビデンスがなければスクリーニングは正当化されない。そして、現時点ではそのようなエビデンスは提出されていないのです。さらにこれらのガイドラインは、現在のスクリーニングツールは偽陽性が多く、保護者に不要な精神的な負荷をかけるリスクがあるうえに、限られた資源の浪費につながる可能性がある、とも指摘していました。

これらの早期介入に関するエビデンスとスクリーニングに関するガイドラインとの乖離は、重要なことを示しているように思えます。保護者が問題を感じ臨床家もその必要性を認めたうえで保護者が自発的にプログラムを利用する場合には、早期診断・早期介入は長期的な経過に意味のある変化をもたらす可能性があるといえるでしょう。しかし、そうでない場合は、必ずしも肯定的な効果を発揮しうるとは限らない。むしろ、子どもや家族の貴重な時間を奪い、家族の精神的・経済的な負担を増し、社会資源を浪費する結果につながる可能性もあるのです。

早期介入の効果は必ずしもスクリーニングを正当化しない。一人の臨床家として、このことをしっかり意識しながら日々の診断に携わっていきたいと考えています。

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48. 2017年の目標

あけましておめでとうございます。

2016年はこのブログをほとんど更新できませんでしたが、年頭ですので、一年の振り返りと今年の目標について書いてみたいと思います。

まずは昨年の振り返りです。昨年は、短期的な目標として、①職員の自立性を高める、②診療所の受診待期期間の短縮、の二つを挙げました。長期的な目標としては地域における医療資源の集約化を挙げ、2016年をそのための準備期間として位置付けました。

①の職員の自立性を高めることについては、まず現場職員の中から1名を管理職に昇格させ、管理業務の一部を担ってもらうようにしました。これについては、抜擢した職員の資質が高かったこともあり、結果として大成功でした。私自身の業務の軽減につながっただけでなく、施設運営への提案、チームコミュニケーションの改善、施設長(=私)の決断へのサポートなど、有形無形の大活躍をしてくれました。

もう一つの具体的な取り組みは、各部門のリーダーを集めてのリーダーミーティングを月1回開催したことです。私たちの施設の特徴として、各職員が個々に業務を行う傾向が強く、結果として個人の努力がバラバラの方向を向きやすく、施設全体の成長につながりにくいという問題がありました。これは、私たちが本来目指すべき自立とは異なるものです。リーダーミーティングでは、私たちの施設におけるリーダーシップとチームワークとは何なのか、ドラッカーの「マネジメント」の一節を引用したホームワークに基づいてラウンドテーブル方式で発表し、議論してもらうことを繰り返しました。1回30分間の短いミーティングでしたが、結果として私たちが地域の中で果たすべき役割(=ミッション)を各リーダーが理解し、そこから個々の場面における自分たちの役割を指示待ちにならず自立的に考えていくという流れを意識してもらえるようになったと思います。ただ、この形式の研修を計画したのが初めてということもあって内容が十分練られていたとはいえず、特に後半の効果が前半ほど明確でなかった点は反省材料です。

リーダー以外の職員については、育成面接の際の目標設定について、今までよりも一歩踏み込み、目標の立て方のところからより丁寧に行うことを心がけました。ただ、これについては十分であったとはいえず、もっと具体的な指導や助言が必要であったと思いますし、達成状況に対するフィードバックも、新しく管理職に昇格してくれた職員がかなりサポートしてくれたので助けられた面はありますが、十分であったとは言いにくいところがあります。

②の診療所の受診待機期間の問題の軽減については、二つの思い切った改革を行いました。一つは、受診待期期間が2年を超えていた就学以降の方の受付を停止し、もっと待機期間の短いほかの医療機関にお願いをしたことです。その代わり、私たちの強みは就学前の療育資源を持つところにあると考え、すべての予約枠を就学前に振り向けることにしました。さらに、詳細な評価や精密な医学的診断を行う従来までの外来を「発達診断外来」と呼ぶことにし、その他に、ニーズに基づいた療育を早期に受けることに特化した「子ども療育外来」を創設しました。この外来はフォーマルな発達評価や医学的診断を行わないこと、就学で完全に終了することの二つを特徴としているため、それだけ待機期間が短くなります。「子ども療育外来」は、療育は受けたいけれど診断は受けたくない、というニーズに応えることも目的にしています。現在、「発達診断外来」の予約待期期間は1年4~5か月、「子ども療育外来」は4~5か月となっています。

長期的な目標である医療資源の集約化については、2013~15年に厚生労働省の研究班(本田班)で行った調査研究を基に函館市への提言をまとめさせていただき、その中で行ったいくつかの提案の中に、この点についても盛り込むことができました。2016年には、このデータを基に、日本小児科学会、函館市小児科医会、道南発達障がいを考える会などで発表させていただき、また函館市教育委員会へも調査の結果を報告させていただいています。

これらの結果を踏まえ、2017年の目標を立てました。

短期的な目標の「職員の自立性を高める」は、今年も同様に継続します。今年は部門リーダーだけでなく、職員全員がリーダーシップとチームワークについて学び、自らの仕事の意味を地域における私たちの役割の全体像からとらえることができるようになることを目指します。また、個々の職員の強みや課題を本人とともに管理職が分析し、それを基に各人の目標設定やモニタリングを援助していく仕組みを導入したいと思っています。

もう一つの目標は、私自身が今後進む方向を定めることです。現在、私は診療所の唯一の常勤医師であると同時に施設長でもあり、診療だけでなく経営や人事、労務管理などの仕事も一手に行っています。今後、組織づくりを自分の仕事の中核としていくのであれば、施設長としてその仕事にしっかり注力すると同時に、管理職としてのスキルをもっと高めていかなければなりません。しかし、医師として、一支援者として、日進月歩の情報を集め、世界の潮流に取り残されないよう、学び、スキルを高めていく必要もあります。その両方を同時に行っていくことは、時間的にも労力の面からも次第に難しくなってきていることは確かです。私自身が何を自分の仕事にしたいのか、どのような業務が自分の強みを生かすことにつながるのか、それを実現するために何に焦点を合わせ何を切り捨てるのか、今年一年をかけてしっかり考えていきたいと思っています。

長期的な目標は、やはり地域における医療資源の集約化です。本田班の研究成果を基に、今年は医療保健行政の担当者の方にも働きかけていきたいと思っています。

そしてもう一つの長期的な目標は、日本ではまだ実現していない「知的障がい看護」という新たな分野について、日本におけるあり方を提案し、実現していくことです。これについては、昨年、社会福祉法人侑愛会がイギリスの知的障がい専門看護師Jim Blair氏を招聘し、福祉セミナーとして基調講演と実践報告、シンポジウムを開催したことがきっかけになっています。私は現在、もう一つの厚生労働省研究班(市川班)で、入所施設における知的障がいのある人たちの医療的ニーズについて調査を進めていますが、今年はイギリスにおける知的障がい看護の先進的な取り組みを参考にしながら研究成果をベースに提言をまとめ、私たちの施設での実践をどう展開させていくのか、長期的な戦略を提案していきたいと考えています。

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47. クリスマスの孤独

14年前、私は単身ロンドンで勉強していた。正直、とても孤独だった。日本にいたときにはそれなりに話せるつもりでいた英語が、現地に行ってみるとろくろく通じない。相手の言っていることがよくわからないこともしばしばだった。私よりもずっと英語が堪能な留学生が(ごくごく微妙な)嘲笑の対象になっていたりすると、気持ちはますます萎縮した。特にロンドンの12月は最悪だ。午後3時ともなると、もう暗くなりはじめる。本当に気分が滅入った。

そんなさなか、当時まだ東京で働いていた妻が休暇を取って、年末を過ごしにロンドンに来てくれた。ヒースロー空港で妻の顔を見たときの安堵感は今でも忘れられない。

クリスマスは多くの人にとって、家族と過ごす日、幸せの象徴のような日だ。その一方で、この日が苦痛に満ちた日、自らの不幸を痛切に感じる日だという人たちもいる。あるカトリックの国では、クリスマスは一年で最も自殺の多い日だという。自殺の最大の原因は孤独なのだ。

世界中で、一人でも多くの人たちが暖かな気持ちで今日という日を過ごせるように。14年前の写真を眺めながら、そんなことを願わずにはいられない。

(Taken on 24th December, 2002, at Tooting, London)

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46. 究極の紅茶―王立化学協会のレシピ

私がイギリスに住んでいたころのこと、王立化学協会が衝撃的な発表を行いました。「紅茶(ミルクティー)を作る時にはカップにまずミルクを注いでから紅茶を注ぐべし」というものです。これは「ミルクが先か紅茶が先か」という議論に終止符を打つべく、数ヶ月間に渡って科学的な分析を行った結果として発表されたものです。

それまで紅茶の淹れ方のゴールドスタンダードと言われていたのは、「1984年」や「動物農場」などで知られるジョージ・オーウェルが1946年に新聞「イヴニング・スタンダード」に寄稿した"A Nice Cup of Tea"という記事で、それによれば、まず紅茶をカップに注いだ後にかき混ぜながらミルクを注ぎいれる、とされています。 これに対して王立化学協会では、熱い紅茶にミルクを注ぎいれると、ミルクが細かい粒子になり熱い紅茶によって変性する度合いが高くなるとして、冷たいミルクを入れたカップに紅茶を注ぐことを推奨しています。また、王立化学協会では、ティ―ポットを暖めるのに電子レンジを使うことを勧めています。そのレシピをご紹介します。

【材料】 アッサム茶の葉(ティーバッグでないもの)、軟水(石灰を除いた水)、冷たい新鮮な牛乳、白砂糖 【器具】 やかん、陶磁器のティーポット、大き目の陶磁器のマグカップ、目の細かい茶漉し、ティースプーン、電子レンジ 【方法】 新鮮な軟水をやかんに入れ、沸騰させます。沸騰するのを待っている間に、ティーポットにカップ1/4杯(イギリスの1カップは250 ml)の水を入れ、電子レンジに入れて最大出力(イギリスでは普通800W)で1分間加熱し、ポットを暖めます。ティースプーンに軽く山盛りにした紅茶をカップ一杯につき一杯ずつポットに入れます。やかんが沸騰したら、ポットをやかんのそばまで持ってゆき、ポットにお湯を注ぎ、かき混ぜたあと、静かに3分間抽出します。はじめにミルクを適量カップに注ぎ、その後紅茶をカップに注ぎ入れます。好みに応じて砂糖を入れます。飲む温度は60-65℃が適当です。あまり熱すぎると飲む時に下品な音を立てる羽目になります。自宅の静かなお気に入りの場所で、座って飲みましょう。雰囲気も大切です。

この発表を受けて、国立物理学研究所では所長名で抗議声明を発表しました。 「これは注ぎいれる順番の問題ではなく、お湯の温度の問題です。化学者は常に問題を複雑にしたがる。これは化学ではなく、物理学の問題なのです」

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45. 私たちの療育が目指すもの

従来から、発達障がい、特に自閉症スペクトラムについては、早期診断・早期療育の重要性が強調されてきました。ここ最近は、欧米を中心に早期療育の効果が科学的な論文として次々に発表されるようになり、早期診断・早期療育への関心が以前にもまして高まっています。

その一方、早期診断そのものにどんなに善意に満ちた意図があったとしても、それを肯定的に受け止め、その後の人生に前向きに生かしていくことの難しいご家族はまだまだ少なくありません。早期診断の重要性が声高に語られているからこそ、診断を受けたことによる苦痛や「普通の」世界から切り離されてしまったという断絶感は、むしろ決して無視すべきものではないでしょう。診断を受けたことをきっかけに、ご家族が精神的に不安定になってしまったり家族関係が悪化していったりすることもけっしてまれではありません。

診断のみならず療育もご家族を追い込む原因になることがあります。強制的で子どもの自発性を大切にしないやり方など療育プログラムの側に問題がある場合はもちろんのこと、療育そのものには大きな問題がない場合でも、「普通でない」場所に通わなければならないという思いや、子どもが期待しているとおりに成長してくれないという焦り、生活の中に占める時間や費用の負担の大きさなどが第三者からは見えにくいストレスの原因になっていることもあります。特に、療育が「よいもの」とされている現在、もしその意義や効果をあまり感じていなかったとしても、療育を利用しないことが子どもの将来にとって不利になってしまうのではないか、療育に通わせないダメな親として見られてしまうのではないか、といった無言のプレッシャーを感じて、よくわからないけれどもとにかく通っている、あるいはただ不安に駆られて「できることは何でも」と、手当たり次第に利用できるものはすべて利用しているということもあるかもしれません。

私自身、早期診断・早期療育に関わる立場です。世界中で積み重ねられる科学的根拠とともに、それと必ずしも軌を一にしない診断や療育の現場の葛藤のただ中で、当事者の一人として悩み続けてきました。確かに、早期診断・早期療育には一定の科学的根拠があります。ですから、それを単純に否定することは、成長にとって意味のある機会を子どもから奪ってしまうことにもなりかねません。かといって、発達に気になるところのある子どもたちを次々に診断し療育へと送り込んでいくというやり方が、これから子育てや教育の長い道のりを歩んでいかなければならないご家族、特に、個人的な資質や生活背景も様々なご家族にとって唯一の選択肢であるべきだとも思えません。

しかも、現在、科学的根拠が示されているような「療育」は、一定の技法を2歳台から集中的に行うという、人的資源の面でもコスト的にも要求度の高いものが中心です。時間も短く、頻度も少なく、開始年齢も遅く、技法的にも確立しているとは言い難い日本の療育の現状とは大きな隔たりがあります。

そんな状況の中、私たちは早期診断とそれに基づいた療育をこれからも続けていくべきなのでしょうか?

今まで述べてきたような矛盾や問題を抱えていることを認識しながらも、私自身はこの問いに対して、「やはり療育には一定の価値がある」と答えたいと思っています。ただし、そこには一つの条件があります。それは、「早期診断・早期療育を受けたいですか?」というご家族への問いかけを、ちょっとだけ変えてみるということです。

その問いかけとは、「お子さんのことをよりよく理解されたいと思っていますか?」というものです。そして、「はい、今よりもっと理解したいと思っています」と答えていただけるご家族には、そのお手伝いをしていきたいと思っているのです。

もちろん、私たち支援者がご家族以上にそのお子さんのことを知っているはずがありません。お子さんの第一の専門家はご家族です。ですから、私たちが専門家然としてお子さんのことをご家族に教えよう、などと考えているわけではありません。ただ、実際には身近だからこそ見えにくいこともありますし、ひょっとするとお子さんの自発性よりもご家族の願いや期待が先行してしまっていることもあるかもしれません。しかも、長い時間をかけて積み重ねられてきた膨大な科学的知見の中から、そのお子さんをよりよく理解するために役立つ要素を抽出し、それを元に毎日の生活を成長にとって意味のある形に整えることは、ご家族だけでは困難なことです。その中には、「何をするべきか」だけでなく、「今は何をしないでおくか」を決めることも含まれるでしょう。

私たちの考える療育とは、それを、別々の専門性を持つご家族と私たち支援者が一緒に行っていこう、という一種の共同作業です。具体的には、私たちが行う評価やそれに基づいた目標設定と工夫の仕方をご家族に見ていただき、そこから毎日の生活の中に生かしていけるヒントを一緒に見つけていくこと、実際の生かし方を相談していくことです。

私たちの問いかけに対して、「私は子どものことはよく理解しているから、あなたの手助けはいらない」とおっしゃるご家族もいらっしゃるでしょう。その場合には、おそらく異なるアプローチが必要です。だから療育は唯一無二の選択肢ではなく、子どもをよりよく理解するための一つの機会となりえる場合を選んで、一つの道具として使っていくべきものです。

早期診断についても同じことが言えるでしょう。子どもをよりよく理解するための前向きの道具になりえるときには、診断は強力な味方になります。しかし、もし診断を生かしていくための準備がまだご家族に整っていないのであれば、診断はむしろご家族を傷つけ、その力を奪ってしまうかもしれません。

どのようなご家族には診断という形をとり、どのようなご家族には診断以外の形をとるべきなのか、診断以外であればどのような援助が効果的なのかについては、まだ十分に検討されているとは言えません。今後、このような点についても研究が進むことを期待しています。もしかすると将来は、診断に対して積極的であろうとなかろうと、ご家族を含め周囲の誰もがお子さんのことをよりよく理解し、その成長にとって意味のある毎日をデザインすることができるようなユニバーサルな方法が見つかるときが来るのかもしれません。

いずれにしてもそれまでは、ご家族が診断あるいは療育を前向きに生かしていける状態になっているのかどうかを見極めること、そしてその状況に応じてご家族と私たちがお子さんのことをよりよく理解できるように力を合わせていくことが、私たち支援者の仕事の一つになるでしょう。その上で、型どおりの療育に安住せず、常に、なぜ、何のために療育をしているのかを問い直しつつ、新たな療育のあり方についても考え続ける必要があるのだと思います。私自身も、そのことを常に心に留めながら、毎日の臨床に携わっていきたいと思っています。

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44. 2016年の目標

 みなさまお久しぶりです。このブログも更新が滞っていましたが、全く書くのを止めたというわけではなく、時間を見つけてぼちぼち書いていこうと思っています。

 今回は、今年初めての投稿ですので、今年の目標について書いてみたいと思います。

 まずは昨年の目標の評価からです。昨年は、業務の簡素化を進め、講演や総説の執筆といった外部の仕事をできる限り減らし、施設長として管理業務に注力することを目標としました。その目標はおおむね達成できたと思います。どうしてもお断りすることが難しいいくつかの講演や総説の執筆はお受けしましたが、例年に比べ、数はかなり少なくすることができました。そして、管理職ミーティングと事務職員とのミーティングを毎週行うようにしたことで、管理職として施設の状況を把握しやすくなり、職員へのフィードバックも以前よりきめ細かく行うことができるようになったと思います。ただし、常勤医師が私一名という体制のためもあり、方針や決定事項、フィードバックなどがトップダウンの一方通行になりやすいところがあります。各職員とも定期的に面接を行うなどして私自身も現場からのフィードバックを直接受けられるように心がけてはいますが、今年はここが一つのポイントになると考えています。

 また、外部機関との連携を強め、診療所の初診の待機期間の延長を実質的に短縮するための取り組みを行いました。この地域における当診療所の特徴は、他施設と比較してリハビリテーションのスタッフが充実していることです。しかし、私の診察がボトルネックになり、リハビリテーションの利用開始年齢が遅れてしまうことが問題でした。そのため、昨年からは他施設で診断を担当されている医師に当診療所での外来を担当していただき、ご自身の施設で診断された方をご自身に紹介する形で、私を通さずにリハビリテーションの処方を直接行っていただくこととしました。いってみれば、オープン診療所方式です。このことにより、私自身の診療時間は減りましたが、地域全体で見ると診断からリハビリテーションの利用開始までの期間をかなり短縮することができたと思います。ただし、他施設でも受診までの待機期間が次第に延長してきていることから、今後は地域全体としてこの問題に取り組んでいく必要が出てきました。

 これらの状況をふまえ、今年の目標の一つは、職員の自立性を高めることを目標に、管理職やそれに準じる立場の職員を増やし、権限委譲を行っていきたいと思っています。私の欠点の一つは、業務を自分で抱え込んでしまう傾向が強いところです。これは、職員の自立性という意味でも、私自身の負担の大きさという点でも決して望ましいことではありません。意思決定がトップダウンになりすぎると発想の幅も限定的になりますし、潜在的な問題にも気づきにくくなり、リスクマネジメントの立場からも不利です。各職員が自立的に行うことのできる業務範囲を広げ、私自身は各職員の目標設定と結果のフィードバックに注力していきます。

 そのためにまず行うべきことは、私が現在行っている業務を、私でなければできないこと、私でなくてもできること(または私以外の職員が行った方がよいこと)に分類することです。そのうえで、各職員とコミュニケーションを取りながら役割分担をし直し、場合によっては職員配置の見直しも法人へ提案していきます。

 もう一つの目標は、受診待機期間の問題の軽減です。そのために、今年は他医療機関との役割分担の明確化を探っていきたいと思います。当診療所の強み、他医療機関の強みはそれぞれ違います。お互いの強みを生かした役割分担を進めることによって、医療資源の浪費を防ぎ、地域全体としてより待機期間が短くなるように連携していきます。幸い、この地域には「道南発達障がいを考える会」という小児科医を中心とする集まりがあり、発達診療を行っている小児科医、精神科医をはじめ、市中病院の医師、開業医に加え、看護師、保育士、心理士など幅広い職種が集まって定期的に勉強会を開いています。発達診療を行っている医師が一堂に会する機会にもなっていることから、今年はこの会を活用して役割分担の基礎づくりを進めていきたいと考えています。

 最後に長期的なビジョンについても触れておきます。現在の道南地区は、こと発達診療に関しては、小規模の医療機関がバラバラに診療を行っているのが実態です。本来であれば、基幹施設に診断機能やリハビリテーションといった医療資源を集中させた方が、医療資源の活用という面からも経営という面からも効率的で、医療や支援のレベル向上や人材育成という面でも有利です。一朝一夕にできることではありませんが、将来的には地域の中に基幹施設を育てる方向で考えるべきでしょう。今年は、その実現に向けて私自身に何ができるのか模索していきたいと思っています。

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43. 重苦しい週末になった。

重苦しい週末になった。

バグダッド、ベイルート、そしてパリで連続テロが起きた。 なぜこんなことが起きるのだろうか? なぜ悲劇は終わらないのだろうか?

テロリズム自体は許されるものではない。 卑劣な脅しに屈することはあってはならないことだし、犯行に及んだ者たちを擁護しようとも思わない。 犠牲になった方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになる。自分や家族が悲劇に直接まきこまれれば、私だっておそらく深い悲しみとともに激しい怒りと復讐心を押さえることはできないだろうとも思う。

それでも、それだけでは何かが違うような気がしてしかたがない。

思いだしていたのは、中学生の頃読んで衝撃を受けた太宰治の遺作、「家庭の幸福」だ。

ごく単純で幼かった私がこの小説を初めて読んだ時の、全身の毛が逆立つような恐怖感は今でも忘れられない。晩年の太宰らしい陰湿な毒と救いの見えない絶望感に満ちた作品で、とても好きな小説は言えないのだが、なぜか心に刺さった棘のように自分に付きまとい続け、今でもことあるごとに思い返されるのだ。

私の幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているのではないか?

この一種の不安と罪悪感のような感情は、太宰のこの小説に出会って以来、常に自分の思いの根底に、表面からは見えない地下水のように流れている。普段はほとんど忘れているのだが、いったん大雨になると御し難い強い流れになって表面に現れてくるのだ。

私は聖人君子ではないから、現実の世界では自分の幸福を追求している。まず自分が満たされ、精神的に安定してこそ、自らの力を人のために生かすことができることは、私自身が日頃から強調していることだったりもする。冷静に考えれば、単純に自分が自分の幸福を手放すことが直接誰かを幸せにするわけでもないことはすぐにわかることだ。

それでも、自分の幸せが他人の不幸の上に成り立っているのではないか、という不安は決して消えることはないだろう。おそらくそれは、(少なくとも)部分的には事実なのだ。

私の幸せ、家族の幸せ、地域の人たちの幸せ、日本に暮らす人たちの幸せ、そして世界中の人たちの幸せが矛盾なく成立する世界は、いったいどうしたら実現できるのだろうか。そして、そのために私にできることは何なのだろうか。

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42. オキシトシン報道に思う

東京大学からのプレスリリース以来、インターネットや新聞でもオキシトシンに関する報道をかなり目にするようになりました。自閉症に対しこれだけの注目が集まっていること自体は歓迎すべきことですし、たくさんの人たちに自閉症について知っていただく機会にもなっていると思います。

ただ、私が報道を見ていると、気になることもあります。それは、今回の東大の実際の研究成果と報道が与える印象との間にかなりの乖離があることです。今回の研究は、確かにオキシトシン投与による社会的相互性に対する一定の効果を示唆するもので、しかもその背景にある神経心理学的なメカニズムにも一歩踏み込んだ、これまでになかった画期的なものであることは間違いありません。

しかし、今回の研究で示された効果の程度は臨床的にはきわめてわずかなもので、報道から受ける印象とはかなりの違いがあります。今回の研究は科学的な意義は大きいのですが、これのみをもって臨床的な有用性を強く示しているとは言えません。その一方で、医療とは全く関係のない仕事をしている私の知人は、北海道新聞の記事を見て「すごく効くのかと思った」と語っています。論文自体は抑制的に客観的に書かれており、私も論文そのものについては大きな問題を感じてはいないのですが、報道は論文とはかなり違った印象を与えるものになっており、結果的に過剰な期待をあおりかねないものになっていることが気になっています。

もちろん表面的な臨床的効果が低くても、長期的に投与することで生活の質(QOL)に一定の向上をもたらすということもあるでしょう。ですから、今回の研究の臨床的な効果がごくわずかであったことをもって臨床的に意味がないないと判断したり研究を中断すべきであるとは思いません。しかし、実際に確認された臨床的な効果が非常に小さかったことはきわめて重要な点であり、報道においてもこの点はきちんと触れられるべきであったと思います。

もう一つの懸念は、報道では「副作用はなかった」とされている点です。実際のデータを見てみるとオキシトシン投与群と非投与群では心拍数の経時的変化に有意差が認められます。実際のデータ上の心拍数の差はそれほど大きくないので無視しうるという考え方もあるでしょうが、こと副作用に関して言えば、ごくまれであっても重篤な副作用が出れば大きな問題になります。ここは一歩間違えると「薬害」問題に発展しかねない点ですし、ぜひ慎重に研究を進めていただきたいと思っています。

最後に、今回の報道を受けて私がもっとも心配しているのは、藁にもすがる思いでいる人たちがインターネットで販売されているオキシトシンを購入し、自分自身や子どもに試すことです。オキシトシンはその効果についても副作用についてもまだ研究途上です。しかも、インターネットで販売されている「オキシトシン」には何らの法的な規制もなく、品質の保証もありません(ある販売業者のサイトには、ひたすらスクロールしてようやく表示されるページの一番下に、読めるか読めないかの小さい文字で「到着後の商品に関する責任は、その一切がお申し込みになられたお客様ご自身に帰することを予めご了承ください。内容の如何に関わらず、弊社はその責任を負いません。」と書いてあります)。他人の不安につけ込み金儲けをしようとしている悪質な業者に、有害な成分を含む粗悪な製品をつかまされてしまう可能性もないとは言えないのです。当事者の方や保護者の方には、市販のオキシトシンには決して手を出さないように強く訴えたいと思います。

繰り返しになりますが、オキシトシンはまだ研究途上の薬です。過熱する報道に踊らされず、確実な結果がでるまで研究の進展を冷静に見守りたいものです。

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41. できる?できない?

発達診療を利用する子どもたちは、状況や場面によって「できたりできなかったり」の差が大きいことがよくあります。たとえば、家では当たり前にできることが外に出るとできなかったり、反対に家では決してやらないけれど外に出ると普通にできたり、といった場合です。お父さんの言うことは聞くのにお母さんの言うことは聞かないとか、特別支援学級だとよくしゃべるのに普通学級では押し黙ったまま、などといった場合もあります。気分や体調、状況によってできたりできなかったりの差が大きい子どももいます。

私の外来では評価の一環としてよく知能検査や発達検査をするのですが、結果を保護者の方や学校の先生にご説明すると、「家(学校)ではできるんです」とか「本当はできるのに、すぐできないって言うんです」といった意見をいただくことがあります。反対に、子どもががんばって検査に取り組んでいる姿を見て「家(学校)では全然やらないのに、外だとできるんです…」とため息交じりに言われることもあります。ときには、できるのかできないのか、立場の違う人の間で議論になってしまったり、できるくせにやらない…という非難めいた調子になってしまう場合もあったりします。

私たちは、できることはいつでもどこでもできるはず(やるべきだ)、と思いがちです。確かに、発達というものを表面的に捉えれば「何歳で何ができる」ことの集まりに見えるかもしれません。しかし実際には、あることが発達的に可能になっても、それがいつでもどこでもコンスタントにできる、ということはまた別の発達的な機能だと考えたほうがいいのです。乳児は、基本的には自分の気持ちのままに行動します。おなかがすけば泣くし、ところかまわず排泄します。状況や相手の期待なんてお構いなしです。でも、発達するにしたがって、いつ、どこでも自分の好きなことができるわけではないことや、特定の場面では自分が何を期待されているのかを察知して、あまりやりたくないことであっても期待に応えたり、やりたいことでも我慢するようになっていきます。気分のままに行動するよりも、今はちょっとがんばっておいた方が長い目で見たら得だ、と理解できるようにもなっていきます。こうして、できることが増えていくだけでなく、「できたりできなかったり」の差が次第に少なくなっていきます。

発達に偏りを持つ子どもたちは、この「できたりできなかったり」の差を少なくするための脳機能、たとえば、周囲の状況から自分が何を期待されているのかを察知したり、ちょっとがんばったほうが結局は得だ、と直感的に理解することなどにも未熟さを持っていることが多いのです。だから、結果として「できたりできなかったり」のばらつきが大きくなってしまいがちです。

いろいろな場面で安定して力を発揮できる子どもへの発達的な援助は、できることを増やしていくことができれば十分かもしれません。でも、「できたりできなかったり」の差が大きい子どもの場合には、できることを単純に増やしていくだけでは不十分です。このような子どもに対しては、できることを増やしていくことと、「できたりできなかったり」の差が少なくなるような、できるかぎり力を発揮しやすい工夫をすることは、いわば発達支援にとっての車の両輪です。子ども自身が、どんな工夫をすると自分は力を発揮しやすいのか、ということ自体を学び、その工夫を自分でできるようになっていったり、どんな人に助けてもらうとその工夫を手に入れることができるのかを知っていけると、より理想的です。

どんな工夫が役立つのかには個人差があります。一律にこうすればいい、という方法があるわけではありません。ですから、私たちが子どもたちの評価を行うときには、何ができて何ができないのか、といった一般的な評価だけでなく、どうしたら「できたりできなかったり」の差を少なくし、力を発揮しやすくすることができるのか、ということも合わせて評価するようにしています。そのときには、余計な刺激を減らして集中しやすくする、一目見れば、いつ、何をすればいいかがわかるようにする、どのくらいがんばればいいのか終わりが見えるようにする、好きなものを活用して意欲を持てるようにする…といった、発達障がいの子どもたちのために蓄積されてきた工夫の宝庫がヒントになります。仮に発達障がいの診断に至らなくても、個別の評価に基づいたこのような工夫が子どもたちの発達にとって役立つことは十分にあり得ることです。

ただし、できるはずのことができないときには、まずはできないことを受け入れた方がいい場合もあります。ポイントは、自発的に意欲を持って取り組めているかどうかという点です。もし、見かけ上「できたりできなかったり」の差が少ないように見えても、それが自発性に基づかない強制されたものであったり、大人の顔色をうかがいながらのものであったり、不安でいっぱいな中で取り組んでいたり、ということがあれば、むしろ「できない」と表現できた方がいい場合もあるのです。そのような場合には、どうにかしてがんばらせるよりも、いったんはできないことを受け入れた後で、なぜできるはずのことができないのかをもう一度振り返り、その原因を取り除くところから始めた方がいいかもしれません。

実は、私たち自身も、「できたりできなかったり」の差が表れやすい場面があります。職場では普通にできるようなことでも、家では「そんなこといちいちやってられっか」となってしまうことはよくあるでしょう。外では誰にでもにこやかに接している人が(別に家族のことが嫌いでなくても)家では仏頂面になることがあったり、職場では几帳面に整理整頓している人が家では結構だらしなかったり、などということは決して珍しくありません。ただ、あまり違和感がない程度に収められるように私たちの脳が働いているから問題にならないだけのことです。そう考えれば、ある程度できたりできなかったりの差があるということは、できることは必ずやらなければ気が済まない、とか、できるはずという周囲の期待には必ず応えようとする、というよりもむしろ健康的なことなのかもしれません。

目の前のお子さんが、できる?できない?どちらなの?と悩むときには、そのどちらが正しいのかを決めるよりも、どうして差が大きくなるのか、どうしたら差を少なくできるのか、そして本当に差を少なくしなければいけないのかについても、もう一度よく考えてみたほうがよさそうです。

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