角岡伸彦 五十の手習い

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百田尚樹『殉愛』の真実・判決篇

   やしきたかじんのマネージャーのKが、名誉毀損またはプライバシーを侵害されたなどとして『殉愛』の著者の百田尚樹と版元の幻冬舎を訴えた裁判で、東京地裁は先月28日、被告に275万円を支払うように命じた。

 275万円というのは半端な額だが、地裁の見立てでは、慰謝料が250万円、弁護士費用がその10分の1の25万円という計算である。

 原告側が『殉愛』で問題にした箇所は19点。当連載でも取り上げた、たかじんがいたICUへの入室をめぐってのKの言動や、使途不明金に関する記述などである。

 そのうち地裁は、15点で原告側の主張を認めた。ほとんどの争点で、<原告の社会的評価を低下させる>ような表現があったと判断した。

 この裁判で被告側は、原告Kが「あられもない格好をした女性の姿」が映った写真をたかじんに誤送信した事案を執拗に責めた。少なくとも傍聴席にいた私には、そのようにうつった。

 百田は、最もたかじんを支えるべきマネージャーに裏切られた一シーンとして、この誤送信を描いた。その虚構性については、前回に書いた。判決ではこの事案について、以下のように述べている。

<私的なメールの内容は、一般に公開されることを望まないものであり、しかも、それが破廉恥な写真を含むものであることからすれば、公開されることを強く望まないものといえる。そうすると、本件記載は、原告のプライバシーを侵害するものであり、その侵害の程度は著しいものというべきである>

 最後の<(プライバシーの)侵害の程度は著しいもの>とまで言い切った文章は、他の争点にはない。原告側の裁判戦術は、まったくの逆効果に終ったと言える。

 問題の19点のうち、4点を<原告の社会的評価を低下させるとまではいえない>と地裁は判断した。ただし、記述の真偽、信憑性までは踏み込んでいない。

 たとえば、たかじんがKにさくらとの結婚を報告するシーン。たかじんから記念品のマグカップ(実際はタンブラーグラス)を渡されたKは、「ああ、どうも」「そやけど、うちは子供おるんで、こんなんもろうても使えませんわ」と語ったことになっている。

 判決文では<原告が亡家鋪(=たかじん、以下同じ)とさくらとの入籍に対してそっけない態度を取り、祝いの言葉を述べなかったとしても、そのことから必ずしも原告が恩知らずの人物であるとの社会的評価を受けるものとはいえない>と述べている。

 真偽はともかく、仮にKがそのように語ったとしても、名誉毀損とまでは言えないと判断している。

 師匠のプレゼントにケチをつける弟子はまずいないので、Kの発言にリアリティはまったくないのだが、そのことと記述上の裁判官の判断は別なのである。

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 当ブログでは触れなかったが、判決で言及されている点について書いておきたい。例のICU入室をめぐるやりとりである。以下、『殉愛』から引用する。Uはたかじんのコンサートの運営スタッフ、竹中は病院の看護師長である。

<病室に戻ると、さくらがICUに入ったのを知ったKとUが、自分たちもたかじんに会わせろと竹中に要求した。

「すいません。他の患者さんもいらっしゃるので、ICUに入るのは奥様だけにしてください」

 竹中が断ると、Kが大きな声で言った。

「この女は奥さんでも何でもない。最近、出会っただけや」

「大きな声を出さないでください」> 

 判決では<被告百田の取材ノートには、看護師が、原告について、印象がない、一向に(病院に)顔を見せない、(治療を)理解しようとしないなどの印象を語った旨の記載があるが、原告が当該看護師に対して大声を出したなどの記載はない>

 大声を出したかどうか、取材ノートには記載がなかった。裁判官も細かいところまで見ている。

 東京のマンションにたかじんの遺体が運ばれ、Kが駆けつけ、玄関先でさくらと口論になった記述についても、次にように断じている。

<被告百田の取材ノートには、亡き家鋪の友人である松本哲朗から聞き取った内容として、原告が東京のマンションに来てさくらを恫喝した旨の記載があるが、その際の具体的な言動等についての記載はない>

 1ページ半にわたる、Kとさくらの激しい言い争いについて、被告側が提出した取材ノートには記載がないという。そんなことがあり得るだろうか。これではまったくの作り話と疑われても致し方ない。

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 裁判の各争点を概括し、判決文にはこう記されている。

<本件各記載は、専らさくらへの取材結果に依拠したものであって、被告百田のさくらに対する取材内容は相当に具体的で詳細ではあるが、客観的な裏付けを欠く部分が少なくない。

 加えて、被告百田は、さくらが原告に悪感情を抱いていると感じていたにもかかわらず、原告側への取材を一切していないばかりか、必ずしも原告側の人物とは言えない弁護士(原告に対して法的権限はない旨伝えた吉村洋文弁護士)に対してすら、取材をしていない>

 裁判官は、さくらの言動には裏付けがないと指摘し、百田の取材不足を難じている。

<しかも、被告百田が取材をしたとするプロデューサー等は、いずれも、亡家鋪の冠番組に関する権利関係をめぐって原告と対立関係にあった者であることがうかがわれる。これらの事情に照らすと、被告百田が本件各記載をしたことに、真実相当性があるとは認め難い>

 百田が”裏を取った”と豪語する取材対象は、さくら側につけばビジネスができると判断したテレビ業者である。彼らばかり取材しているようでは、とうてい客観的な記述とは言えないーー裁判官はそう判断した。

 加えて『殉愛』の持つ根本的な問題について、次のように指摘している。

<『殉愛』は、亡家鋪の周囲に信頼できる者がいなかった中で亡家鋪がさくらと出会ったことにより本当の愛を知ったとされ、亡家鋪の孤独と亡家鋪を支えるさくらという構図で描かれたものである。

 この構図を際立たせるため、原告は、『殉愛』の全体にわたって、亡家鋪のマネージャー等として長年活動していたにもかかわらず、業務を遂行することができないばかりか金に汚い人物であるかのように表現され、さくらとの関係においても、亡家鋪に対して恩義を忘れた言動をして亡家鋪の信頼を失い、亡家鋪の信頼を得たさくらに嫉妬して怒鳴るような人物として表現されている>

<『殉愛』は「純愛ノンフィクション」という宣伝の下に販売され、イニシャル以外の登場人物には全て実名が用いられていることをも勘案すると、原告に対する社会的評価の低下の程度は大きなものであったといわなければならない>

 たかじんを支えるべきKに裏切られた、たかじんの孤独を、さくらの愛が埋めた。その構図を際立たせるために、Kを守銭奴で仕事ができない悪者に仕立て上げた。”純白”を際立たせるために”漆黒”をよりどす黒く描いた、というわけである。まさに『殉愛』の本質を衝いている。

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 被告および原告はともに控訴せず、判決は確定した。3年におよぶ裁判は終った。<2018・12・20>

  1. kadookanobuhiko posted this