試し読み
第一話「月曜日・ライムントの場合」-Diffusibilität-
「鏡の中に人は〈私〉を発見する」――ジャック・ラカン
(弘文堂 ジャック・ラカン『エクリ』より))
(略)
「やや、どうも魔女さま! ちょっとばかし配達が忙しくってこの時間ですよ。そしてこいつは魔女サンへのお届け物! 今週分のお届けです!」
「ご苦労ご苦労。届けてさえくれるのであれば、僕は時間はいつだって構わないよ。きみ、夜の時間のほうが暇だと言っていなかったっけ。夜でも僕は気にしないし、僕は大体起きるのは昼間だから」
「いいやあ、いいんですよ! 夜だと翌朝に響きますからね。こういう時間のほうが、自分にとってはありがたいんですよ」
夕焼け空が、じきに夜に飲まれ始める頃。それが、決まって多忙のライムントがこの家に訪れる、唯一の隙間時間であった。ライムントは、付箋紙がいたるところに貼り付けられて分厚くなったノートを差し出す。ライムントは、唯一原稿用紙でないものに物語を書き記す男だ。それに魔女は何を言ったりもしないし、たとえ何に書かれていようが、それが物語である限りは食事に困ることはない。
ただ、唯一他の人と異なっているのは魔女の万年筆の赤いインクが、そのノートには一滴たりとも含まれていないということ。あくまで下書きだから、と、彼の持ち込んだ付箋紙をノートにぺたぺたと貼り付けながら、重箱の隅を突く魔女は赤を入れる。結果として、かなりの厚さになりはじめたノートが魔女の目の前にある。
「それにしても、きみの書く話はどうにもきみと結びつかないな。ああ、まずいとか、そういうわけではないんだ。出来が悪いとかでもなく、純粋にきみという作者とこの物語が結びつかない、というのが正しいかな。人の書くものっていうのは、大抵は、どこか当人の写し鏡であることが多いんだ。きみだからこれが書けたのか。きみだからこれを書くことになったのか、……ってさ」
第二話「火曜日・ヘルフリートの場合」-Mechanismus-
「驚くのは、心の底にある想像力の中心に触れて刺激を与えるための特徴的な効力が、一滴の水に潮の香りがあったり、ノミの卵の中に生命の不思議が丸ごとあったりあるように、最もありふれたおとぎ話の中にある、ということである」――ジョーゼフ・キャンベル
(ハヤカワノンフィクション文庫 ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄(上)』より)
(略)
「やあ、同胞。今日こそ貴殿の物語に終わりは来たりそうかね」
「だから。そういう言い方をやめてくれ。僕はきみみたいに正真正銘の化物じゃあないんだ。一緒にしないでもらえるかな。……皮肉ばっかり言ってたら、そのうち自分の毒でやられるぜ」
「その言葉、我が身を省みることになりますぞ。誰よりも似合った相手が、私の目の前にいるのですから」
肩を竦めて、わかりやすく溜息を漏らす。首を左右にゆるゆると振って、ベッドの上で右手だけを伸ばす。伸ばした右手には、当たり前のように分厚い原稿用紙が渡される。濃紺のインクで書かれた文字の羅列。大作家・ヴァルター卿が書き記した、幾らするのだかわからない新作の物語の原稿。それを魔女は、誰よりも早く読み、誰よりも早く批評する。そして、改めるべき箇所があるのであればそれを赤いインクの万年筆で手直しする。
魔女と大作家の関係は、ただただこれだけだ。読者と作者。それ以上でもそれ以下でもないのだ。だからこそ、肩入れをしたりもしない。素直に、ヴァルターの名前がそれで軽んじられるようであれば赤を入れて。ヴァルターの名の通り、誰もが面白いだろうと思う部分には触れもしない。文句がなければ、特に褒めることもない。それが魔女なりの「同胞」への向き合い方だった。
第三話「水曜日・ローベルトの場合」-Ein Träumer-
「――とするならば、自分にとって敵とは授業料を払わなくてすむ教師で、こっちが気がつかずにいたことを彼から何か学ぶという利益を頂戴することに、何の不利益があろう」――プルタルコス
(岩波新書 プルタルコス『饒舌について 他五篇』より)
(略)
白髪の混じり始めた色の薄いブロンドの髪。愛嬌のある――悪く言うならばへらりとしたその立ち振る舞い。それでもきちんと着こなす背広は彼の地位の証明だ。
彼は、魔女の家に通い始めていくらかの年を経た。魔女は彼の髪が美しいブロンドの頃を知っているし、彼の子供が生まれる前のことだって知っている。それだけの長い年月を経ても、彼の物語が貸本屋に並んだことは一度たりともなかった。
彼は、エルネスティーネのように物語を自己表現のものと純粋に思っているわけではない。できることならば、今すぐに紙芝居の興行屋なんて廃業して、一日中原稿用紙に向かって――それでいて、物語で明日の朝食を賄いたいと思っている。それは前提であり、事実であり、またこの物語において非常に重要なことである。
「きみがここに来たところで、きみには利益がないこと。きみは知っているものだと思ったけれど。……知っていた上でこれを繰り返しているんだから、きみのことはちっともよくわからないな」
「そりゃあ、そうだろう。君にはわからないかもしれないが、俺には間違いなくメリットなんだ。だから君がどう思おうが俺からしたらそんなこと微塵も関係ないんだから、「魔女」らしくしてればいいんだ。……人間みたいなことを言われると、こっちが困んのさ」
第四話「木曜日・エルネスティーネの場合」-Über Monster-
「人間は自由であり、常に自分自身の選択によって行動するべきものである」――ジャン・ポール・サルトル
(人文書院 ジャン・ポール・サルトル『実存主義とは何か 増補新装』より)
(略)
葛紐で括られた原稿用紙の束を差し出したあとに、束よりもいくらか少ない原稿用紙を追加で手渡す。「まずはそこから。続きは、君のよきように」、と。魔女は、これを当然のように受け取って、いつもどおりに「ありがとう」という短い感謝の言葉を述べる。
様々な物語をこの家に持ち寄る創作家の中でも、エルネスティーネは特別丁寧な創作家であった。物語の味――単純な好き嫌いが人間にはあることを、そもそも当たり前だとして受け入れる。そこまでは、別段丁寧というよりも、そうあるだけ、とも言える。彼が異なっているのは、読者の味覚に合わせて、物語そのものを組み替えてしまうのだ。だからこうして、追加の小冊子を彼はこの家に持ち寄る。
「この話の先を選べとは、きみは本当にいい性格だ。いっそきみが「こうだ」と言ってくれれば、読者の僕が責任の一端を担わされて心苦しくなることもないだろうに。嫌なやつだなあ」
「嫌なら選ばないのだって、君に許された選択だ。その先を選ばないというのは、読者にしかない権利だし、きみは読者なのだから最大限に活用すればいい。君が読んでも読まなくても、わたしは文句は言わないよ。それが、君に与えられた権利なのだから」
第五話「金曜日・エーリヒの場合」-Über Verzweiflung-
「――永遠は君の自己を通じて君を絶望の中に釘付けにするのである!」――キェルケゴール
(岩波文庫 キェルケゴール『死に至る病』より)
(略)
「理想を書くならば、それを恥じる必要なんてありやしないだろうに。物語って、そういうものじゃないのかい? 理想を語り、夢物語を聞かせ、ハッタリを効かせる。そうだな、きみに必要なのは、物語に夢を見すぎないことかな」
「別に夢なんか見てないだろ。現実が見えてる。だから俺はこれ以上書けないし、お前が何を言ったところで毎週毎週「同じ類型」を持ってきてるだけなんだろ。ハッキリ言ったらどうだ、「もう筆を折れ」って。言いたいのはそういうことだろ?」
「わかってるんだ」、と小さく零して、エーリヒはまた悪態をついた。魔女は、目を細めて一瞬だけ困ったような顔をして、またなんでもないように笑ってみせる。赤いインクの万年筆を器用にくるくると回して、教鞭を取るようにエーリヒに向ける。サスペンダーを上げ直して、エーリヒは、魔女の教鞭を取り上げてサイドテーブルにそっと置き直す。
「いいんだ、俺は。俺が満足することもない、俺が評価されることもない。世界の隅でこうやって生きてるだけで充分ありがたい。それでいいだろ」
「いいや、嘘だね。魔女に嘘をつくなんて愚かの極みだ。つくならばもっとわかりにくい嘘をつくべきさ。きみはね、」
第六話「土曜日・ヒルデブレヒトの場合」-Individualismus-
「思考と発話とが相互依存することからわかるように、言語は、既成の事実を捉えるための手段というよりも、未知なる真実を見つけ出すための手段である」――カール・ケレーニイ
(白水社 カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根源像』より)
(略)
僕は読むからさ、とサイドテーブルに置かれた分厚い原稿用紙の束を手にとって、さあ、さて読み始めようか――といったところでヒルデブレヒトは魔女のすぐ傍まで来客用の椅子を近づけた。同じ原稿用紙を一緒に読めるほどの距離。来客の中でも、飛び抜けてこの男の距離というものは近い。魔女はそれが嫌ではなかったし、むしろ心地がいいものだと感じていた。だから特段、何を言うことはない。土曜日はいつもこうなのだ。
「……ああ、それ。そこね。そこ。……いやあ、やっぱりメチャクチャ面白いな、この話……」
「きみ、原稿の隅に赤で書き込んでおいたらどうだい。解説、読むときにあるほうが便利だろ」
捲られていくページ。広いワンルームに、男の楽しげな声と原稿用紙をペン先で叩く音が響く。一ページずつ、男は魔女の視線の先にある物語の注釈を述べていく。
主人公の男。無表情のままに出てくる女性キャラクターに対して腰つきやたわわに実った胸に賛辞を並べては、すぐにまた別のものに視線を向ける。それでいて、主人公の男に対して熱烈な視線を向けるのは女性ではなく男性が多く。劣等感や独占欲や――その他諸々をすべて煮込んで煮詰めてどろどろになってしまったシチューのような感情を向けられても男は動じることはない。気付いていないわけではない。ただただ、興味がないだけなのだ。自分がどんな感情を向けられたとしても、男は自分のことしか考えていない。どんな葛藤も、どんな恋慕も男は「それで?」の一言で片付けてしまう。そして、男は世界を背負うことになる。それでも男は何も言わない。文句も、別れの言葉も、そんなものはどこにもないとでも言いたげに。
「やっぱりな。やっぱり好きなのはこういうのなんだよな……。いなくなったことに誰も気付かなかったらなおいい。こうじゃないとな。英雄ってのはこういうもんなんだよなァ。やっぱり最高に面白いな……」
そして男は姿を消す。誰の記憶からも、あらゆる媒体に記録された男という事象が消えていく。幸か不幸か、男が消えて誰も何も思うことはない。思う余地すらも、男以外には与えられていない。男以外の誰もが、この物語の核心に触れることなく日常へと戻っていく。男だけは、全てを知って。されど、――
「いや読者もわかんないだろうこれじゃあ! こいつは一体何を為して何者になったんだ!」
「『世界』になったって書いてあるだろ」
Comment