
2021年2月3日、JOC(日本オリンピック委員会)臨時評議会において、オリパラ組織委員会会長森喜朗が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「女性は競争意識が強い」「(女性理事の数を)増やす場合は、時間も規制しないとなかなか終わらないと困る」などの女性差別発言を行った。その場で咎める者はなく、JOCメンバーからは笑い声もあがったという。
世論の8割がオリンピックを開催すべきではないと回答する中、国内外で森の辞任を求める声が殺到し、オリンピック推進派は火消しに必死だ。森会長の差別発言は今に始まったことではない。このような家父長制を体現する人物に活躍の場を与え、権威を与えてきたのがスポーツ界であり、オリンピックであることは明白だ。わたしたちは森とJOCによる女性差別に強く抗議する。オリンピック憲章に書いてあろうがなかろうが、発言する女性を貶め、嘲笑し、口を封じようというあからさまな性差別を許してはならない。そして、その成り立ちから一貫して性差別の温床でありつづけているオリンピック・パラリンピックの廃止を求める。
忘れもしない、東京都が2020オリンピック招致のキャンペーンを行っている渦中、2013年1月の柔道女子選手たちの勇気ある告発から、スポーツ界の暴力体質、性差別が明らかになった。軍国教育を引き継いだこの国のスポーツのありかたをめぐり、パワハラ、セクハラが横行する日本で、オリンピック招致なんてあり得ないと多くの人たちが考えていた。JOCを含む体育関係の5団体は「暴力行為根絶宣言」を発表し決意を表明したかのようにみせることで、同年9月のIOC総会で、東京にオリンピック招致決定までこぎつけた。それから8年、JOCは何をしてきたのか、このJOC評議会での出来事に表れている。JOCを始めとするスポーツ界は、それ以前もそうであったように、序列化された組織の中で当然のように性差別を行い、差別的な発言を共に嘲笑し従属することで、差別を更に助長、拡大させてきたのではないか。
森の発言について、組織委やJOCは「オリンピック、パラリンピックの精神に反する不適切な発言」と表面的、形式的な批判をしてみせた。IOCもまた、「森会長は謝罪した。この問題は終了と考えている」と不問に付す態度を見せていたが、批判が高まるや一転「まったく不適切」だと声明を出した。しかし、そのオリンピズムの提唱者たるクーベルタンこそ強固な性差別者である。彼は晩年まで「オリンピックは男子のみの大会でなければならない」という考えを持ち続け、オリンピックに女子競技を含めることは「実際的ではないし、面白みがないし、見苦しいうえ、敢えて言えば、不適当である」とその著書で記している。オリンピックは戦争の代理品でもある。オリンピズムが謳う「平和」とは、殺し合う代わりにスポーツを競い合う、戦争と相似形のものだ。それゆえにオリンピック•パラリンピックは、健康な白人男性を基準とした価値評価によって強者を讃えるメガイベントとなっている。ジェンダー・バイアスに基づいた競技判定、男女という二つの性の差別化、健常者と障害者の分離など、差別にまみれた競技スポーツの参加をあおり「平和の聖典」として祝い、国をあげて4年おきに世界各地でくり返す。オリンピックでは、毎回、女性選手のみが性別の判定をするテストを強いられるという、人権侵害を受け続けている。この男性中心的な構造は、クーベルタンが創始した第一回オリンピックから、100年以上を経た現在に至るまで根本的に変わっていない。むしろ、ジェンダー平等や多様性、持続可能性を謳い、時代が要請する人権配慮を率先して取り込むことによって、オリンピックがはらむ差別を覆い隠しオリンピック神話を補強し続けている。
世界最大の国際イベント、オリンピック・パラリンピックはあらゆる差別、排除、破壊、強奪、人権侵害なしには成り立たない、金儲けと政治のためのナショナル・イベントだ。オリンピックに踏みつけられた者たちからの批判を覆い隠すために、キラキラと「平和」を演出し、「感動」でごまかし、「オリンピック憲章」「オリンピズム」で権威づけ、「レガシー」と称して街が破壊されている。私たちが出会ってきたオリンピックの犠牲者、オリンピックに反旗を翻す者たちの半数以上が女性だ。コロナパンデミックによってたくさんの命や生活が危機にさらされている中でも開催強行しようとしている東京オリンピックは、女性たちの声を封じ、女性を嘲笑して進められてきた。もうわたしたちは、性差別者たちのための「祭典」を生かしておくわけにはいかない。今こそオリンピック•パラリンピックは廃止だ。
2020,2,12 反五輪の会