200101

ジェリーのようなそれからトムのような風がふたりのそばをうち過ぎていった

/牛隆佑(旅人と詩人の雑誌「八月の水」5号)

新年明けましておめでとうございます。今年も不定期に、しかし一年間、やってゆきたく存じます。

短歌が5W1Hを全て示していることはほぼないが、この歌はとくに少ない。ように感じる。なんせ、風が二人のそばを過ぎていっただけなのだから。いつ、とか、どこで、とかは示されない。どこで、が示されないのが特に抽象的だ。

ただこの歌から示される、風が通るということが本質的に持っている「爽やかさ」を超えた爽やかさを僕は感じていて、それは「どのように」風が吹いているのか、の暗示の仕方がとても巧みだからなのではないか、と考える。

鑑賞に教養として「トムとジェリー」を要するが、偉そうで恐縮だが常識の範囲内だと思う。トムはいつも怒っていて、ジェリーを追い回す。ジェリーはねずみだから、素早くも小さな風。トムは猫だから、速さはやや劣れど大きな風。

この、ジェリーのあとにトム、というのはある種の「必然」だ。物語のお約束だから。そのお約束が、現実の風に、拘束と予感のようなものを与えている。大きな風がくるだろうな、という心象。そして実際に、くる。

そういう必然性を持って、これらの風がどこを通っていったのか。二人の「そば」だ。間ではない。であれば、これは厳密にどちらかに近いというより、等質に二人の眼前を過ぎていったのではないだろうか。というのは、トムとジェリーは「観るもの」だからだ。

この推測は可能性の一つに過ぎないけれど、この歌において「風」に物語性と鑑賞性が与えられているのは間違いない。そしてどこまでいっても風だから、風になぞられて立ち昇る物語は、一瞬のものであとは霧消してしまうのだ。それはすなわち、無限の歌の奥行きであろう。

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