善人ぶるのは愚か
私は事件や事故、病気などで我が子を失った親に対して
感情的に同情することはあっても、理性的に同情したことはありません。
なぜなら、世の中にはそういった不幸があることを承知の上で産んでいるはずだからです。
だから、可哀想だと「思った」ことはありますが
可哀想だと「理解した」ことは一度もありません。
以前、ある人が「本当に自動車事故を起こしたくない奴は、そもそも車に乗らない」と言っていました。
彼の言葉は確かに極論ですが、ある意味正しすぎる極論です。
本当に子供を不幸な目に遭わせたくない気持ちがあるならば、そもそも産まないはずです。
いくら身内がその子の幸福を望んでいようとも
この世の中は損な役目を負う者が必ず出てくるわけです。
しかしそのことを忘れてしまう。幸福をつかむ為に忘れようとする。
「自分は大丈夫だろう」「世の中そのうち良くなるだろう」
誰もが最初はそう思うのです。
そして、その期待が見事に裏切られ
いつしか自分が損な役目に見舞われた時になって、ようやく思い出すのです。
理由がどうあれ、人がなんと謂へ
悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時
人は思ひだすだらう、その白けた面の上に
涙と微笑を浮かべながら、聖人たちの古い言葉を
(中原中也「冷酷の歌」)
被害者は被害者で人生を閉じたからこそ、生前の人格や失われた将来が美化されるのであって
もし長く生きていたら、逆に加害者になったかもしれません。
それは事故の加害者という意味だけではなく、広い意味での”競争社会の加害者”にも当てはまります。
「夢を持っていた」と言っても、夢の実現は競争であり、イス取りゲームです。
その子が生き延びてそのイスに座っていたら、誰かはイスから漏れていたでしょう。
不謹慎かもしませんが、死んだ人の夢だけは美化するというのはくだらないと思います。
世の中には不幸とは無縁なように見える人もいるわけですから
「なぜ私の子だけがこんな目に?」という気持ちも良くわかります。
しかし、平安に生きたいも立派な要望であり、欲です。
自分の欲を満たせなかったことを怒っても、本人が思ってるほどの正当性はありません。
でも、そんなことよりも問題なのは、親がそのことを覚悟していようとしていまいと
実際に辛い思いをするのは、被害に遭う子供自身なんだということですね。
「産む事は暴虐への献身である」という詩もありますが
この世界にはどうにもならない不条理があり、また誰の心の中にも
理不尽な欲望が備わっていることを忘れてはいけないと思います。(2005.11.02)
Source: web.archive.org