Twitterに垂れ流した感想ツイートを改変しつつ。
俺は学生時代、吹奏楽部で3年間だけコントラバス(ウッドベース / ダブルベース / なんでこいつだけ呼び名がたくさんあるんだ)をやっていた。
吹奏楽には、「チューバやバリトンサックスで出せない音」のためにコントラバスという弦楽器が入る。管楽器に出せない音と言うのは、ぽぉん、と跳ねる音だ。弦をはじくような、つまりピチカート。ピアノの鍵盤をとん、と押して離した時の音。それが管楽器には難しい。そこで、吹奏楽にはコントラバスのみ、許される?ことになっている。簡単に説明するとそんな感じ。
ところが、俺のいた吹奏楽部にはコントラバス(吹奏楽では「弦バス」と略す)を担当した人が過去いなかった。
吹奏楽部に入部するとまず、楽器の適性を試して行く(木管楽器はきれいに音が出ても金管楽器はNG、という人がいたりする)。俺の時は1週間くらい経ってからか、顧問の先生と部の先輩たちが決めた担当楽器が発表され、そいつと卒業まで付き合うことになるのだ。
俺は、なんだかわからんが(多分手がデカいから)、先駆者として弦バスをやることになった。先駆者。つまり、教えてくれる人がいないのである。管楽器同士なら教えあいも情報交換もできるんだが、唯一の弦楽器だ。どうしようもなかった。
しょうがないので出入りの業者さん(楽器屋さん)が用意してくれた教則本を片手に、毎日楽器を抱いてピアノの前にいた。ピアノを鳴らしては、それと同じ単音を正しく鳴らす練習。弦バスにはフレットがない。フレットとは、ギターなんかについてる、弦と交差してついている線、「弦を押さえる位置の印」だ。あれがないクラシック楽器(ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロも同様)は、印を押さえれば「ド」が鳴るわけではない。演奏者の指が位置を覚えているのである。これを指に覚え込ませるため、毎日毎日、ピアノを鳴らし、弦を押さえて鳴らし、そしてふたつの音がズレていたらやり直し……と繰り返していた。
指が運指を覚えたら、今度はボウイング(弓で弦を弾く)、次はピチカート(弦を指先で引っ掛けて離す)、教則本を追いながらちょっとずつ覚えていった。
この本を読んでいて、思い出したのはその頃のことだ。
頭の中には欲しいベースラインがある。楽譜は多少読めたので、こういう音を鳴らしたい、は、ある。なんなら7歳で『We Are The World』に頭を殴られて以来の音楽バカだから、10代とは言えベースラインはわかってる。なのに自分の技術が追いつかないのだ。
ピアノという楽器はこれが顕著だろうなあと読んでいて思った。鍵盤を押せば、鳴る。ここまでは誰でもできる。なのに両手同時に動かない。指が思うように躍らない。その先に行くには、練習する以外に超える方法はない、と作中でレイコ先生が言う。そうだった。ひたすらピアノの前で、4本の弦と共にいた。いちばん太い弦を鳴らした時の抱えた楽器の胴の響きとか、いちばん細い弦でとても高い音を鳴らす時の弦の細かな震えとか、読んでいてそういうのを思い出した。
「これでわかるんですか?」
「なんとなく」
「俺は弾けそうですか?」
「それは保証する。YOU CAN DANCE」
──鈴木智彦『ヤクザときどきピアノ』p,119
鈴木智彦氏の作は初めて読んだのだが、しかしたまにツイートはRTで拝見していた。どうやら裏世界に潜入してはそれを書いている方のようで、この本の装丁画も強面の男性がピアノの前に座っている図だ。背景の壁には、ABBAのポスターが貼ってある。
さてそんな本を知ってしまったら俺はもちろん読みたい。なんなら他の作品も手を出そうとしている読了後である(そういや……フィクションだけど、大沢在昌『新宿鮫シリーズ』の新刊、まだ亡父の遺影に供えたままだなあ。というアウトロー好きなもので)。
そうしてなんとなく知っていた強面ライター氏の、かわいいんだかドスが効いてるんだかわからないタイトルの本を買った。
音楽は、言葉を蹴り出す。
俺は昔からそう思っていたので、つい最近、ここ数年まで「音楽を言葉で、文章で表現する」ことを諦めていた。どんなに他人に薦めたい音楽があっても、レビューすら書かなかった。
高村薫に『リヴィエラを撃て』という名著がある。俺の座右の書だ。アイルランドIRA出身の「テロリスト」(ここは鉤括弧をつけねばならない。理由は作品を読めばわかる)を中心に、イギリスはスコットランドヤード、MI5にMI6、アメリカからはCIA、日本の外事警察まで出て来る、撃って撃たれてついでに打たれてとまぁ見事なハードボイルド国際戦な小説だ。
その作品に、世界的ピアニストが登場する。彼のコンサートのシーンがあるのだが、これが見事。文庫版では4ページを使って描かれたブラームスは、まるで行間から聞こえて来るように思えた。高村薫は、言葉だけで音楽を1曲まるごと表現してしまったのである。
俺は初読時、音楽は言葉を蹴り出しているのではない、俺の言葉が音楽に届いていないのだ、と思った。
さて、翻って鈴木氏の書く「音楽」。楽しみに読み始めた。氏は「あるきっかけ」によって、ABBAの『ダンシング・クィーン』を弾けるようになりたいと心底願い、ピアノ教室を探す。その中で氏が出会ったのが、Twitterでも大人気のレイコ先生だ。
本書の帯にある引用文は、氏がレイコ先生の演奏を言葉であらわした箇所である。
治安が悪いのである。
俺は、ピアノの奏でる音楽を言葉であらわす際に「火薬」という単語をつかう人を初めて知った。ちゃんとタイトルを読み、著者のバックヤードを知っていれば納得するのだが、それにしたって火薬がはじけ、って。
しかしそれは、著者に取っては自然なことなのだろう。ピアノの先生とは言え、女性と2人切りになる部屋のドアを細く開けておくのと同じように。氏の生活に音楽が溶け込んでいる証左だろうと俺は思った。そして、音楽に魅せられているから、慣れた世界の言葉で書いてしまうのだろうと。
確かに本作の随所に見られる治安の悪さは思わず笑ってしまうし、著者もそれを狙っているのだろう。けれど、俺は笑いながらもそれを「真摯」と感じた。知っている世界の言葉で、新しい世界を書く。それはとても真摯だ。持ち弾で勝負しているのだ。
20年以上ヤクザに脅されて来ても、ピアノ発表会の本番の緊張には勝てないのか、と氏は書く。そこにレイコ先生が「トイ、トイ、トイ」とおまじないをかけてくれる。ヤクザの世界に「大丈夫、うまく撃てるよ」というおまじないがあるかどうかは知らないが、氏はレイコ先生の導きのもと、新しい世界の知らない緊張感に挑んだ。
これは、新しい世界をひらこうとしている人に、新しい世界へのドアの前で悩んでいる人に、贈りたい本だな。
そう思った。
……俺もやりたいなあ、ピアノ。正直そう思う。先延ばしにしていたら俺が死んでしまうかも知れないしなあ。