これは、俺が17歳か18歳か……ともかく、25年くらい前に書いた小説です。完全にオリジナル。横書きだけど「小説」の体裁を気にしていたようで、数字は漢数字になっています。
もしも、「ひきこもり生活」のひまつぶしになれば、当時のJK俺氏も、公開に踏み切ったおばちゃん俺氏も、うれしいです。
なくさないように、しまっておいて
「一七歳か……いっつも俺の前を歩いてくよなぁおまえは」
互いに部活動を早引けして、よく行く喫茶店でケーキを頼んでささやかなお祝いをした後、家でもお祝いがあるからと言う彼女を送るため、俺たちは電車に乗っていた。彼女の耳には小さなピアス。
「嘘。そんなに早歩きしてないよ、私」
くすくす笑って彼女が答える。ふわりと視線を窓の外にやりながら、指先で軽く耳のイミテーションパールに触れる。気にいってくれたみたいだった。良かった。
まだそんなに遅い時間ではなかったけれど、もう外はだいぶ暗かった。冬の足音が聞こえてきました、そんなコピーが世の中に氾濫する季節。彼女の大きな瞳に、窓の外を流れるネオンの光が次から次へと映っては消える。俺はその光にしばし見入っていた。この、生まれて初めての恋人を、俺はそれはそれは大切に想っていた。
橋にさしかかる。足元から、さっきより乱暴な音が響く。
「ねぇ見て。……川に月が映ってる。綺麗」
急に言葉をかけられて、その瞳に見入っていた俺はちょっと動揺する。
彼女の視線は変わらず外へ向いていた。……綺麗だった。満月を二日ほど過ぎていただろうか、それでも輝きは衰えていない。いや、これから欠けていくことを知っているから、必死で光を放っているように見えた。
今度彼女の瞳に映るのは、……何もない、闇。月明りが包み込む、優しい闇だった。
おまえはあの時、なにを想ってたんだろう?
そしてあの夜、なぜあの川へ消えてしまったんだろう? 水面に揺れる月が、おまえを呼んだのだろうか……。
俺は、結局大学へは行かなかった。高校一年の時親父に連れて行かれたバーで働いている。バーテンダーの見習い(もう見習い歴三年だ……はぁ)である。親父の友人であるマスターは優しいけれど、仕事にはとにかく厳しい。マスターの奥さん(一水〈いつみ〉さんっていう)は、静かな言葉で容赦なく叱るマスターと叱られる俺を横目で見ながら、料理を用意したり気が向くとピアノを弾いたり。お客もいい人ばかりの、雰囲気のいい店だ。
「バーっていうより『溜まり場』っていう感じの、アットホームな店でな。俺の友達の店で、“サンクチュアリ”っていう店なんだけど。お前が行っても誰も咎めたりしないと思うんだ。どうせ初めて飲むなら、いい店でいい酒を飲むべきだっ」
そう力説した親父は、酒好きの遺伝子を俺にくださった(お袋もか)。
「瞳〈あきら〉くーん、バイオレットフィズ頂けるかしら」
「はい、かしこまりました。沢渡さん好きですねぇバイオレット」
「若い頃から好きでねー。必ずっていうほど飲んでたわ」
「あっ、やっぱり遊び回ってたんですか?」
なにーっ、と怒ってる沢渡さんは、思わずママー水割り頂戴っと言いたくなる風貌だけど、実は売れっ子の脚本家。この間のドラマも最高視聴率三〇パーセント!なんて出してたから、顔が知られてしまって迂闊に出歩けやしない、と嘆いている。“サンクチュアリ”は駅前の繁華街より少し奥まった所にあるから、そんな業界人もよく来る。(ちなみに俺も沢渡さんのドラマは好きで、欠かさず見ていたりするので、やっぱり嬉しい)
「一水さーん、ピアノ弾いてよー」
「あっオレも聴きたいーっ、弾いて弾いてー」
駅前公団住まいのサラリーマン二人が、ちょっと頬を赤くしてテーブル席から声をかけた。一水さんはそうねー今日は弾いてなかったぁねー、なんて言いながら洗い物の手を止めてカウンターを出る。
“サンクチュアリ”のウリのひとつが、一水さんのピアノだ。音大を出てるだけあって、腕前は一級だし、レパートリーも幅広い。
広くはないはずの店内に置かれたグランドピアノ。これだけ大きいのに、それほど圧迫感がない。
紫色の飲物を沢渡さんの前に置くと、静かにピアノが鳴りだした。
「……あれ、これって天気予報?」
カウンターにいた二人連れの女性たちが、はたと顔を見合わせる。俺も好きな曲だけど、やっぱり天気予報のイメージが……。
「おっ、ジョージ・ウィンストン」
おっと、お客だ。先にマスターが声をかけた。
「いらっしゃいませ。久し振りだねー、林くん」
「えぇ、昨日だったんですよ初コレクション。忙しかったんで」
林さんも常連の一人だ。ファッションデザイナーをしていて、最近独立したそうだ。そっか、じゃあ顔見せないはずだ。
男の人がもう一人と、女の子……年は俺と同じ位、かな……?
強い瞳。誰かに、似てる?
「あらら、こんなところでひなたちゃんにお目にかかれるとはねぇ」
沢渡さんがそう言った。
「知ってる人ですか?」
「えっ瞳くん知らないの? 藍川ひなたっつったら今一番旬なモデルよ。そっか林小吉のコレクションに出たのねー。見たかったわー。ちょっと挨拶してこよっと」
沢渡さんはそう言って林さんのテーブルのほうへ行ってしまった。えーと……。
「瞳、暇なら林さんとこオーダー取って来て」
マスターに言われて、はっと我に返る。
誰に似てるんだろう? いや、そんなこと差し引いてもかなりの美人だ(モデルなんだから当たり前か)。
「ご注文はお決まりですか?」
「お、瞳くん久し振り! まだマスターに怒られてんの?」
「いいかげん回数は減りましたよぉ。林さんこそ忙しそうですね……あっ、独立おめでとうございます」
「サンキューっ。あ、オーダーか、ちょっと待ってくれよ……」
いつもは結構落ち着いたクールな雰囲気の人なのに、なんだか陽気だ。そりゃそうだ、ついに念願の独立! だし。
沢渡さんはいつの間にか例のひなたとかいう子と話し込んでた。
「あれ、じゃあひなたちゃんて瞳くんと同い年?」
「え、あきらくんて?」
「この方よー。ここのバーテン見習い」
「え?」
こちらを見上げたところに、思い切り視線を合わせてしまった。
あ。
わかった……誰に、似ているのか。
「あきらくんて、いうんだ?」
「あ、ええ……そうです」
ぎこちなくなっちまったかな。
「すごいのよー、漢字でヒトミと書いてあきらって読むの」
うわ、綺麗な名前ーっと彼女が驚く(大抵俺の名前を一発で読んでくれる人はいない)。
俺はどうしようもない想いに駆られていた。
そうだ、彼女、玲子に似てるんだ。俺の、今まででたった一人の恋人に。
玲子は一七歳の誕生日の夜、家族でお祝いをした後、皆寝静まった後に一人家を出た。もちろん翌朝は大騒ぎだった。家族が捜索願いを出した直後、この街を二分して流れる川に女性が浮かんでいると住民から通報があった。……玲子だった。
玲子は前の晩食事をしたときのまま、高校の制服を着ていた。着衣の乱れは全くなく、外傷なし、争った跡もないことから、自殺と断定された。遺書も日記も見付からず、理由は全く判らずじまいだった。
玲子は学校では人気者だった。明るくて芯の強い子だった。誰もが彼女のことが好きで、彼女も皆のことが好きだった。俺たちは同じクラスで、いつもクラスの中心にいて校内と教室を忙しく行き来する彼女に、俺も好感をおぼえていた。そんな彼女が俺に告白してきたのは、あれは夏休みが目の前に迫った頃。俺は剣道部の練習を早めに抜けて、誰もいない教室で荷物を片付けて休んでいた。(前の晩親父と飲んでいたから、暑さに負けて気分が悪かったんだ)
誰かが、開け放した後ろのドアから入ってきた。
「……西条くん? どうしたの、部活は?」
「あー勝海さんだー……駄目だ、頭がくらくらする」
「大丈夫? 熱射病?」
玲子はそう言って心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「……ねぇ、いきなりだけど、西条くん今彼女いる?」
「へ?」
まさかあの人気者勝海玲子が俺なんかのことを好きだったなんて思わなかったから、間抜けな返事をしたっけな。玲子は二人のことを隠すこともなく、いつの間にかクラス公認、校内公認になってしまっていた。
玲子は成績も良かった。これなら六大学だって平気じゃないか、との評判だった。
だから、誰も信じられなかった。玲子が自殺するなんて。
今でも時折思い出す。水に濡れたおまえの耳に淡く光ってたイミテーションのパールと、あの夜水面に揺れていた月。
その度に怖くなる。あの偽物の宝石と、欠けていく月の光が、記憶の中で引かれ合い、繋がって、一つになっていくんだ。俺があのピアスをあげなかったら、おまえは月に呼ばれたりしなかったんじゃないか。馬鹿らしいといつも思い直すけれど、やっぱりそんな気がして、急いでしまい込む。
「瞳くん、なにか作って?」
あ。玲子の眼だ。
「瞳くん? おーい仕事中だぞ、ぼーっとするなー」
「……あっ、すみません」
ひなたさんだった。俺はカウンターの中に戻っていたんだ。いつの間にかひなたさんと沢渡さんがトレードしている。沢渡さんは林さんたちと楽しげに談笑していた。
「なにかって言っても、俺たいしたもの作れないよ」
「いいよ、なにか得意なの作って」
得意なのって言ってもな、まだマスターのOK出るのも三分の一の確率だし……とりあえず、モスコミュールなら平気かな。
「はい、どうぞ」
ひなたさんはきれいな指でグラスを受け取って一口啜ると、満足そうに微笑んだ。あまりモデルっぽい笑い方じゃなくて、ただの女の子の顔だった。
「おいしい! たいしたものじゃないの、これって」
「マスターはまだまだだって言うけどな」
「ふぅん、厳しいんだね……」
また一口啜った。よく見ると、どうもノーメイクみたいだ。つまりそれは、素顔だって十分きれいだってことで……すごいな。
「ねぇ瞳くんて、結構もてるでしょ?」
「えーっ?」
「かっこいいもん。ねーねー、彼女は?」
彼女、か。そういや、作ろうとも思わなかったな……。
違う。いらなかったんだ。
「いないよ」
「あ、そうなんだ? なんだ、皆見る目ないなあ……」
この店気にいっちゃった、また来るね、なんて言ってひなたさんは帰っていった。
その三日後に来たのを皮切りに、ひなたさんは本当によく店に来た。ほとんど二日に一遍である。初めと違って、毎回一人だ。
その日は日曜日で、マスター夫妻が次の日から旅行に行くと言い出した。早春の京都に行くそうだ(いいなあ)。自然、店は二人のいない三日間休業である。
「こんばんわぁ!」
「おっ、いらっしゃいひなたちゃん。今日は仕事休みかい?」
「ええ、明日からまた雑誌の撮影ですわー」
ひなたさんは“サンクチュアリ”に来るときはいつもノーメイクだ。そしていつも、カウンターに立つ俺の前に座る。なんだかそれだけで、店の中の雰囲気が少し変わる。モデルだからかな、なんて思うけど、そうじゃない。ひなたさんだから、周りの空気を変えることができるのだと思う。そしてその空気は、日なたのように暖かく居心地がいい。店の常連さんたちとも、すっかり仲良くなってしまっていた。
「瞳くん、いつも作ってくれるの、頂戴」
「かしこまりました」
あの日作ったつたないモスコミュールを、ひなたさんは妙に気にいってくれていた。
──ありゃ、空っぽだ。
「ごめんちょっと待っててくれる? 酒足りないから取ってくるわ」
カウンターの奥へ回ると、同じことをしていたマスターが声をかけてきた。
「なあ瞳、ひなたちゃんって可愛いよなあ?」
「そりゃあそう思いますけど……どうしたんですかいきなり」
「瞳は今彼女いないんだろ?」
「だからどうしたんですって」
「いや、ひなたちゃんて瞳のこと好きなんじゃないかなあ、なんてな」
「はぁ!? 嘘でしょー」
嘘でしょー、とマスターの手前そう言ったけど、……どうもそうらしい。俺が暇になってカウンターの内側でグラスを磨いたりし始めると、俺にいろんな話をさせる。昔のこと、今のこと、趣味、いろいろ……。ひなたさんは人に話をさせるのが上手くて、しかも聞き上手だから、喋るほうもつい気分が良くなっていろいろ喋ってしまう。
「はい、お待たせ」
「ありがとう。ねぇ、入り口のところに貼ってあったけど、明日から休みなの?」
「うん、そう。三日間ね。あれっでも明日から仕事なんでしょ?」
「夕方には終わるもん。なんだ、明日から瞳くんに会えなくなるのか……」
何も言えなくなってしまった。胸の中に、忘れていた暖かみが戻ってきたような気がした。
同時に、眼の奥に淡い光が蘇る。それは冷たくて、胸の暖かさはすうっと冷めていく。白く、水に濡れて光る。白く、白く、光る。
「残念?」
やっと口を開いた。
「うん……でも、瞳くんも休みたいもんね。そりゃー仕方ないし」
素直な子だな……なんて、妙に感心した。俺はその日、上手くすりぬけて他の客の相手をして、その後ずっとひなたさんとは目も合わせなかった。
街を流れる川は、俺の好きな場所でもある。
この街の大抵の人が、幼い頃にはあの川で遊んだという記憶を持つ。街中だから釣りをする大人たちもほとんどいない。なぜかこの街の小学校は川沿いにあることが多いので、暖かい季節になると子供たちは遊び場を校庭から川へと移す。俺も、そうだった。小さい頃からあの川で遊んでいて、当然のようにあの川が好きだった。
その川へ、玲子は消えた。
どんな風に? 制服を着たまま──紺のブレザーに同色のボックスプリーツのスカート、赤いリボン、玲子はそれがとても良く似合ってた──俺がプレゼントしたピアスも、つけたまま。裸足で。あの夜は冷たい風が吹いていた……。
堤防から、川べりへ降りる。手前の方はまだ浅い。本流から枝分かれして、川というか水溜まりを作っているんだ。そこを白く細い足が横切る。ぴちゃ、ぴちゃ。ぬめっとした陸地を通り過ぎると、目の前を川が流れる。足元の小石に注意しながら、水の中へ、一歩、一歩。そう、このあたりから急に深くなる、もっと進むと流れに巻き込まれる……。
玲子の髪が、揺れた。
「瞳く────ん!!」
「えっ?」
振り返る。堤防の上に、……ひなたさんがいた。俺は、川の中に立っていた。ジーパンが膝まで濡れていた。
「なにしてんのーっ、まだ寒いんだから、風邪ひくよーっっ!」
おかしいな、店しめて、帰ろうと思って、それで……いつの間にか、家へと向かう角を逆に曲がっていた。川へ、足が向いていた。
まだ春は遠いようで、本当に水は冷たかったから、俺はすぐに川から出て、堤防の上にいるひなたさんの所へ歩き始めた。川は俺を呼び戻そうともせず、ただ淡々と流れているようだった。
「どうしたの瞳くん? びっくりしちゃったよあたし」
「いや、俺もよくわかんない……」
ひなたさんの家は川沿いにある一軒家だそうで(こんな郊外にもモデルは住むのだなと妙なことを考えた)、あの後家に帰ってまた犬の散歩に出てきたのだと言った。ばくという名(笑)のその犬は、人懐っこく俺の足元にまとわりついてきた。
「いくらなんでも、こんな時間に散歩してたら危ないよひなたさん」
俺は、しゃがみこんでばくの頭をなでながら見上げて言った。
「……瞳くん、ほんとに今彼女いないんだ?」
「……いないよ」
今日は月が出ていない。良かった。
「あたし、瞳くんのこと好きだよ」
柔らかい風が吹いた。川の中に月がある。俺は立ち上がる。
「ごめんね」
「どうして? どうして謝るの? あたしはただ、瞳くんのことが好きなだけ。別に付き合ってなんて言わない、瞳くんが嫌なら」
「違うんだ。好きに、なれないんだ」
「……え?」
眼の奥の冷たい光を見ないようにして、俺は言葉を押し出した。
「昔、恋人を亡くしたんだ。一七歳の誕生日の夜、この川に入って自殺した」
大きいひなたさんの眼が俺を見ていた。俺はその眼を見返すことができなくて、川の向こう岸を走る車たちの流れるライトの光を見ていた。
「家族も、もちろん俺にも、理由が分からなかった。学校では人気者で、成績も良かったし。俺といる時にも、いつも笑ってた」
ばくが足元にじゃれつく。
「わからないんだ……あいつが、どうして死んだのか。それを考え始めると、もう眠れなくなるし……でも、考え続けなければいけない気がするから。だから、誰も、好きになれないんだろうなって」
「……でも答えはないんだよ?」
ひなたさんが言った。俺はその顔を見ないようにして、帰るために堤防を降りた。
正直なところ、そんなことひなたさんに言ってほしくなかった。玲子のことを、彼女は全く知らないのだから。──話した俺が悪いのだ。
「瞳くん!」
俺の背中へ、ばくも、寂しげに鳴いている。
「あたしは、遠慮なんかしないからね!」
今日の夜には、マスターたちはこっちに着くはずだ。駅まで迎えに行こう、と何十杯目かのカクテルの味を見ながら思う。“サンクチュアリ”で働き始めてもう三年が経とうとしている。もうなんだか、マスターと一水さんが親のように思えてしまう。生んでくれた両親とは別の、両親。
マスターからはいつからか店のスペアキーを貰っていた。最初は怖くて仕方なかったけど、だんだんその怖さは気持ちのいい熱い緊張感に変わった。信用してもらっていることが嬉しかった。
マスターには、二人のいない間カウンターに立って練習をしたい、と頼んでおいた。明日からまた店を開けるから、今日は一水さんが頼んでおいた料理の材料も届く。だからいてくれると助かるなぁ、と一水さんが言ったのもある。まぁ毎日来ていたりするのだけど。
半地下になっているせいで、この店の裏口はない。(強いて言えばマスター夫妻の居住スペースに通じるドアくらいか)だから入り口のドアは『CLOSED』の札を出して、天気もいいから開けっ放しにしておいた。
店にはBGMをかけられる設備がない。ピアノがあるからだけど、俺はピアノが弾けないし、弾きながらシェーカーを振るのは無理だ。だから家から小さいラジカセを引っ張り出してきた。古いラジカセは、必死に音を出してくれている。
おっ、今回はいいかもしんない。ちょっと気にいったので、一杯飲み干すことにした。
ピアノの前の椅子に座る。ここに座って後ろを見ると、店内が見渡せるんだ。背もたれつきの椅子にまたがるように後ろ向きに座った。
なんだか疲れた……。三日間、毎日このカウンターに立って練習をしていた。店を開けているときは必ずしもシェーカーを振り続けているわけじゃない。こんなに酒というものに向かい続けたのは初めてだ。それでも納得のいくものなんて、──あったかな? なかったかもしれない。もしかしたら、マスターだって自分にOKなんて出してないんじゃないか、そんな気がした。
ふわりと風が入ってきた。まだ寒いけど、必死でやっていたからそうは思わなかった。心地いい。
グラスを持ったまま、軽く目を閉じた。
「今日はお休みじゃないの?」
あったかい。
目を開けると、ドアのところにひなたさんが立っていた。青空のかけらを従えて。
「お休み。俺だけだよ」
柔らかい笑顔を俺に向けると、いつも通りカウンターに座った。そしていつも通り、
「瞳くん、いつも作ってくれるの、頂戴」
俺もいつも通り、カウンターに立つ。
「じゃあさ、これ飲んでみて。いままででいちばん、かもしれない」
ほんと? そう言って、嬉しそうにグラスを受け取る。一口含んで、ひなたさんは驚いた顔をした。
「これ、いつもの?」
「そ、いつもの」
「……別のものみたいだよ? ほんとにおいしい」
しばらく、俺たちはお互いに黙っていた。ひなたさんはゆっくり、ゆっくりグラスを空けた。そして、脇の椅子に置いたリュックから、一冊のアルバムを取り出して一枚一枚めくると、俺の前に置いた。
「この子でしょ、瞳くんの亡くなった彼女って」
……控え目な笑顔を浮かべるひなたさんの隣で、──玲子が、笑っていた。ひなたさんの人差し指が指しているのは、玲子だった。
「……話聴いててさ、もしかして、って思ったんだ。玲子は彼氏ができたなんて一言も言わなかったから、違うかと思ったんだけど、あの川で自殺したなんて話他に聞いたことないし。で、気になっておととい玲子の家に行ったんだ。おばさんに会って、昔話なんかして、玲子って彼氏いたのって訊いたら、『あら、ひなたちゃん知らなかったの? 高校の同じクラスの子だって言ってたわよ』だって。それで、やっぱり玲子だったんだなって。
あたしと玲子って、幼馴染みなんだよ。幼馴染みどころか、誕生日も、生まれた病院も一緒でさ。だから親同士も仲いいの。でも家は遠くてね、同じ学校に行ったことはないんだ。
なのによく一緒に遊んでた。お互いの学校の話したりして。どっかで、似てたんだろうね。誕生日も、生まれたところも一緒だから、なんか、特別だったの、お互いが。好きな本だとか、音楽だとかも、よく似てた。
でもね、中学に上がった頃、玲子が物凄い反抗期になっちゃったの。家にいたくない、お父さんもお母さんも大嫌いだって、よくうちに逃げて来て、泊まっていったりしてた。一年くらいで落ち着いたけどね。そしたらあたしはそういう玲子を真近で見てたから、親に反抗なんてしなくなっちゃった。そこから、あたしたちの性格は正反対になった」
俺はじっと聴いていた。ひなたさんの遠い眼を見ながら、ゆっくりとカクテルを作り始めることにした。瞳くんも知ってるだろうけど、そう言って俺の眼を見返して話を続ける。
「玲子は明るくて元気で、強かった。二年生の後半だったかな、クラス委員に立候補したなんて聞いたから、驚いたよほんと。自分が楽しいことが一番だった玲子が、だもの。あたしは『世のため人のため』なんてカケラも考えなかったから、信じられなかった。そしたら玲子なんて言ったと思う?『皆が楽しければ私も楽しいよ』って。忙しいよ、疲れたよ、辛いよって言いながら、死ぬまで皆のために頑張ってた。それでも、充実してるっ! って顔してたもん、負けたわー、って思ったんだほんとに。
あたしは逆に、何もできなくなったの。玲子のそんな姿を見ていて、自分には何もできない、あんなに強くない、って諦めちゃった。とりあえず周りの皆と一緒のことしてれば生きていられる。そう思ってた。
そうしたら、玲子は急に自殺しちゃった。なんでだか、さーっぱりわかんなかったよ、あたしにも。
……でもね、だんだん、わかったの。もしかしたら、玲子は疲れちゃったんじゃないかって。おばさんも言ってたけど、玲子、行きたい大学だとか、将来の話って全然しなかったんだよ。そうじゃなかった?」
氷をグラスに入れながら、俺は何も言わずに頷く。
「だよね。怖かったんだと思う。だって、自分は皆が、皆と、うまくやって行けるようにって、それだけやってきたんだもん。周りはそれに甘えて、玲子が頑張ってる間に、いろんな夢を見て、それに向けて歩き始めてる。玲子には、その時その時を頑張るだけで精一杯なんじゃなかったのかな。それで疲れて、怖くなったんじゃないかなって、そう思ったの。
……瞳くんのこと、どうして教えてくれなかったのかなって考えた。なんでだと思う?」
さあ、わかんないな。俺は首を軽く傾けてみせた。
「悔しかったのかもね。あたしさ、高校に入った時に、少しでも自分を変えたくって、ロングヘアをばっさりショートにしたんだ。で、美容院で眼鏡外した時、美容師さんが『眼鏡、外したほうが可愛いじゃない!』って言うのよ。半分お世辞だったろうけど、妙に褒めてくれて、なんだか気分良くなっちゃって、コンタクトにしたんだ。んでその勢いでオーディション受けたらこれが大当たりしてさ。もしかしたら、そんなあたしが玲子を余計苦しめてたのかもしれないんだ……」
どこかで、玲子が笑った。
「そんなことないと思うな。玲子さ、死ぬちょっと前、俺と一緒にいたんだよ。その時、誕生日の同じ、大切な親友がいるんだって初めて教えてくれたんだ。じゃあ今日一緒にお祝いしたかったんじゃないのって言ったら、その子は今日暇が取れないから、──仕事だったんでしょ、ひなたさん。──昨日二人でお祝いしたの、特別だから二人きりで、って嬉しそうにしてたよ」
やわらかくて甘い桃のカクテルを作った。ピンク色の液体をグラスに注いで、ひなたさんの前に置く。
「ありがと。瞳くんは?」
「俺は、これ」
バーボンをロックで。きれいに調和したカクテルもいいけど、たまにはこんなシンプルな味もいい。
「乾杯、しようか」
「何に?」
ひなたさんの眼には、桃のカクテルと似たような涙が浮かんでいた。きっと、甘いだろうな。なぜかそう思った。
「玲子に」
次の日から、“サンクチュアリ”はまた営業を始めた。マスターは、時々俺に難しいカクテルも作らせてやる、と言った。一水さんも、モスコミュールは一級品だね、うちの旦那より上手いかも、なんて言った。そしてなんと、それは俺の特別カクテルにされてしまったのである。ひなたさんが『Eye’s Cocktail』なんて名前をつけてくれた。瞳のカクテル──俺の、カクテル。そうさせたのは、ひなたさんだ。
そのひなたさんは、やっぱり二日に一遍は店に顔を出す。そして、いつもこう言う。
「瞳くんのカクテル、作って?」
ある日、ひなたさんがこう言った。
「ねぇ、今でも玲子のこと好き?」
俺は、全く迷うことなく答えた。
「好きだよ。きっと、いつまでもね」
「良かった。あたしも玲子のことずっと好き。でもね、瞳くんのことも好きなんだ」
ひなたさんはそう言って、日だまりのように笑った。そしてその日だまりが、眼の奥に冷たく光る白く淡い光を、ゆっくり、ゆっくりあたためていくのを、俺ははっきりと感じながら、より良い調和を作り出そうと、毎日を過ごす。
冷たい真珠色した月をあたたかい光で包むことができたら、それを心のいちばん大切なところにしまい込んで、俺はまた恋をしてみようと思う。
なくさないように、しまっておこう。