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自然哲学的

サイ・トゥオンブリーを原美術館に見に行った。
本論で主張したいのは、トゥオンブリーの作品群は自然哲学的である、ということである。

ライプニッツのいうところの自然と人工のクンストカマーたる現代の美術館において、芸術作品に触れるとき、それは人工の産物に我々は触れている。
自然と人工の区別は明白だ。
自然は神がつくりだしたものであり、人工とは人間がつくりだしたものだ。
だが、自然と人工の境界はいくつかの議論で審判されやすいものだ。
人間は神による被造物なのであるから、人間によって作りだされたものもまた、
間接的には神の被造物なのではないだろうか。
神は人間の創造の産物であるなら、自然はいったいだれによってつくられたものなのであろうか。
自然の象徴たる森の多くは、すでに人の手を介して成立する、原生林ではなく里山である。
様々な議論が自然と人工という境界を犯している。

絵画において、自然を描く写実の絵画がある。
自然がまずあり、そこに人間の作為があり、人工の絵画がある。
きれいな図式である。
多くの絵画は既存の道具に従い、自然を見、そこに人間や神の介入があり、人工物が生まれる。
これが創造行為であるとする。
決められた方法論で行われることで我々は最も素朴な人工の定義を再確認し、安心することができるだろう。

トゥオンブリーの作品を前にすると、他のドローイングではみたこともない素材の紙が用いられている。絵の具が物質的である。紙に紙が貼られている。
絵の具と紙が、概念を表す道具として透明であることを拒否し、まず物質である。
この時点で、人工の作為のなかに、透明であるべき道具そのものの素材としての自然が混入している。
ある絵は花のようにみえる。それは、花を見、花について描いたものなのだろうか。
花は筆をつかわずに指で描かれたような痕跡で描かれている。
どうも、自然を見、人工の絵画として花を表現した、それだけのものではない。
どうやら、人工の絵画それ自体が、自然なのだ。
絵の具と絵の具が混ざり合うことによって生まれる色の混濁。それは画家の意図したものなのか、意図したものではないのか。そんなことはどうでもよい。
絵の具の混交によって、自然の性質によって生まれたものは、人工のものでもあり、自然のものでもある。自然の性質が、自然の産物である画家によって用いられ、自然の一部としての絵画として受肉している。
トゥオンブリーの作品は、庭園のように、それがそれたらしめている性質を、きっぱりと、自然と人工のいずれにも帰すことが難しい。

ブライアン・アーサーによれば、技術とは自然の性質を人間の特定のための目的に用いるためのものである。であれば、技術とは、人工そのものである。
しかし、科学哲学は、なぜその技術が生まれたのか、という理由を十分に人工だけで説明することはできない。有り体に言えば、人間は人工の産物ではなく、自然の産物だからである。
人工は人工のみから作り上げることはできない。自然をもとに、人工を積み重ね、新たな人工(それはイノベーションと呼ばれている)が生まれるのである。

トゥオンブリーの作品には、ギリシアの神話のキャラクターを示す文字が記されることがある。
ギリシアの時代においては、科学は哲学と曖昧な存在であった。
科学は哲学の中にやどっていた。自然は哲学によって導かれる知によって説明されるのだ。
それが自然哲学といおうとしていることだ。
知は人工なのだろうか。であれば、自然は人工によって存在しているのか。
そんなことはない。人間が存在していなくても自然は存在しうる。(知覚し得ないものは存在しない、という議論への反証)
自然哲学は、一方向的な論理展開では成立できない。
自然の観察があり、一方で哲学がある。哲学だけでは自然は存在しないし、自然だけでは人間はいなくなる。

つまるところ、表現と介入なのである。

引き続きブレーデカンプのライプニッツに関する著作を読んでいる。
ライプニッツが造園にも深く関与していた、という内容である。

そんな中、今日は、庭の木の剪定をした。
1年近く剪定をしていなかった柿ともみじの木が乱雑にのびている。
乱雑なことはわかるが、どの枝や葉を落とすべきなのか全くわからない。
いったい何のために葉を落としてよいか、わからない。

枝には、様々な種類があり、忌避すべき枝があるという。
「立ち枝」とは、幹と平行に、まっすぐ上にのびてしまった枝でこれは落とさねばならない、という。「逆さ枝」とは、幹の方向にのびた枝という。
枝は幹から遠く平行に、他の枝と絡むことなく、同心円上に広がるべき、
という原則がここにある。
その背景には、自身の成長によって自身の成長が妨げられてはならない、
という成長戦略がある。
あるいは、葉の養分を制限し、実をつけることも大事だ。
もちろん、隣家へのびていく枝など、生育している場所によって異なる禁忌もあるだろう。

企業や個人が成長を続けるためには、内在的な養分だけでなく、
どちらに伸びていくか、という戦略が大事だ。
すでにある企業は、すでにそこで成長できるだけの、養分のある土地、日光を受けられる空間などの条件を持っている。ほっといていても成長したい。
ただ、自然にまかせ成長していると、自身を滅ぼしかねない。
実益(=実)を得ずに、自身の成長にばかり投資してしまうかもしれない。

このように、木一本の剪定を持ってしても、
いかにあるべきか、と考えるきっかけを我々は得るチャンスを持っている。
何気ない生活の知恵であり、思いままならぬ、自然原理との付き合いである。

家事においても、同様に、仕事の基本的な原理をシミュレーションできる。

まさに家宰である。家における宰相とは、家族での公平な(それは、必ずしも等分を意味しない。
父が最大の分配を得る家庭もあれば、子どもが最大の分配を得る家庭もある。そこにはその家族の正義があるのだ)配分を行う。

ところで、木の剪定を企業経営に例えると、元来の主事業であったものから枝分かれした事業から
第二の主要産業が生まれるような(ありふれた例だと3Mのような)事例は、
枝が幹になったようなことなのだろうか。
ここから木のアナロジーから根茎へのアナロジーを持ち出すでも良いし、
木の外に常に人間の介在を想定して、
生育のよい枝のところに新たに木を植えるシーンを想定しても良いだろう。
自然哲学のアナロジーは、長大な時間がかかる厳密な正しさよりも蓋然性を求める判断のうちでいまだに有効なのだから(それは「信念 belief」と呼ぶと良いと思う)、それを用いれば良いのである。

ライプニッツは、デカルト的科学のあり方に対して、アリストテレスの目的因(テロス)を引き合いにだした。自然に目的因を見いだすことは今日の価値観では奇妙に思える。われわれは十分にデカルト的なものの見方を自然に対して向けている。しかし、そこに目的因をみいだすからこそ、解釈し、いかに生きるべきかを問い、生活に根ざした知恵を我々は獲得することができるのだ。そうでなければ、自然との対話は、なにもメッセージを発しないか、すべてが同じ目的因(例えば、科学的探求の実践や個人の嗜好)に帰せられてしまうだろう。